1561(前)

緑の葉のあいだに白い綿毛が浮かんでいた。小さな手足が生えた綿毛は2.3匹ほどで群れをなし、木陰で睦む男女を憚ることなく見下ろしている。かすかに響く鳥の鳴き声、木の葉が身体をこすり合わせる音に紛れて綿毛の粟立つような鳴き声が耳障りに響くので、男は快楽の夢うつつからもうすっかり覚めてしまった。
「ねえ、もう一回して」とミコッテの女が息も絶え絶えにそう縋りつき、たくましい男の腿に股と尻尾を擦りつけた。若草の青い臭いに、精液と汗の臭いが交じり合って、生臭い生命が一面に立ち込めている。
綿毛の、糸屑のような目と目が合う。自分たちが見える人間であると悟れば、嘲りの笑い声はいっそう大きく響き渡った。
「あんた、何見てるの」
細い指に顎を掴まれ顔を落とす。
汗ばんだ乳房に木漏れ日が落ちている。濡れた肌は陽光の元で見ると、乾いた石ころと対して変わらない。抱いたばかりの女は、中に精を吐き出してしまえば途端につまらないものと思えた。うるんだ瞳で見上げてくる女が肩越しにいる綿毛たちに気付いている気配はなく、男の顔がその見開かれた瞳に映り込んでいる。
つき飛ばすと女はアッと声をあげて地面に転がった。泥に汚れぬように敷いた衣服を手早く身に着け、仮面を目深にかぶっているあいだ、女は姿勢を崩したまま男を唖然と睨みつけていた。
「もう戻れよ」
なおも不満げな顔に服を渡すと、怒りと困惑が入り乱れた女の相貌は歪む。耳を逆立て怒りに震え、しかしやがて諦めたように目を背ける。立ち上がるのに手を貸せば乱暴に振り払い、ねぐらへと肩をいからせて歩いて行った。小枝を踏む猛々しい足音が遠ざかる音を聞きながら煙草を取り出し火をつける。精を放って乾ききった咥内に苦い煙草は染みわたった。
ふと見上げれば、綿毛たちはまだ同じ場所に留まって、ちいさな声で何かを嗤っている。おおかた、人間のせせこましいやり取りを面白がっているのだろう。
「何見てんだよ」
煙草を持った手を振ると、綿毛たちは地を這うすべての生命を嘲笑い、ふわふわと光の中へ舞い上がっていった。すると何処かの木のうろから精霊の柔らかな歌声が聞こえだして、黒衣森のありふれた午後は耳聡い者たちにとっては沈黙をまったく知らないでいた。

黒衣森は鬱蒼と茂り、訪れる人を惑わせる。森都で生まれた者であればなおさら足を踏み入れぬ森は、禁域と呼べば聞こえはいいが、実際のところ、精霊が独占し、あるいはならず者たちの住処として森は深くその身を閉ざしていた。
ザナラーンとグリダニアを結ぶ唯一の幹線に沿うように敷かれた獣道を男は歩む。80イルムをゆうに超える長身は時折木の枝に触れ、その艶やかな黒紫の髪をいたずらに絡ませた。木の葉の重なりを越えたほんのわずかな陽光が真昼を告げるたび男の両眼は宝石じみて輝き、彼と彼の仲間たちだけが知る秘密の獣道の行く末を見つめる。はたから見れば道なき道を進むが、獣の足跡、腐り倒れた木の幹、太陽の角度、そのすべてが道しるべとなる。彼は盗賊だった。
「トーマ」
呼びかけられ、男はそれが己の名であると思い出した。
振り向けば、太い幹の影から飛び出さんばかりに身体を傾けたニコロワがこちらを見下ろしていた。仮面の下に不満げな表情が現れていることはそのしぐさから明らかだった。
「どこ行ってたんだよ。見張りの時間になっても来ねえし。忘れてるのかと思っただろ」
頭をぶんぶんと振り回しながら喚く青年は男が女との密会を楽しんでいる最中にもここでひとり蹲っていたのだろう。
「連帯責任だって、ボス、言ってただろ。おまえじゃなくて俺も怒られるんだぞ」
「そうだな」
あしらうと、まだ不満なのかぶつぶつと唇を震わせるが、男が無視して歩き出すとその後ろを慌てたようについてくる。やがて彼らは背の高い茂みから街道を見下ろす位置で腰を下ろした。通りがかる行商人を監視し、襲う者を選ぶのだ。
「今日こそは良いキャリッジが通るかな」
そわそわと肩を揺らすニコロワは盗賊たちの一番の新参者で、豊かな暮らしを捨て森都を飛び出した酔狂な青年だ。25歳と自称したがどう見ても先日成長期を終えたばかりの身体は萌える若木のようにやわらかくしなやかで、古参の盗賊には若葉とバカにされている。それゆえにか、歳が近く、自分を半人前扱いしてこない男をまるで兄のように無邪気に慕っていた。
男は懐から取り出した小型のナイフで鏃を削っていたが、ニコロワは成長期をようやく終えた若木の腕をいたずらに揺らし、街道のその先の砂漠の国でも見ようとするかのように細い首を伸ばし、利口に待とうと思い至って身体をすくめ、しかし再び身体を起こし、をそわそわと繰り返した。木漏れ日が形を僅かに変えた頃、やがて口を噤み続けることに堪えられなくなったのか「だいたい、大人たちはみんな怖がりすぎなんだ」と急き切ったように言った。
「おかしらは臆病すぎるんだ。もっともっと通りがかるキャリッジみんなみんな襲っちまえばいいのに」こどもの時代が残る丸みを帯びた顔がきょときょととあたりを見回すと、ふいに、声を潜めて問いかける。
「なあ知ってるか」
「何を」
「アラミゴが陥落した時は、盗賊業も大儲けだったって。なんでもやりたい放題で、毎日がお祭り騒ぎだったって。その頃にはまだ、トーマも盗賊団にはいなかったんだろ」
手を止めて男はニコロワを見た。この表情の変わらぬ男の興味が引けたとニコロワは満足げだ。
「ジェラールさんとダミアさんが喋ってたんだ。四年前はすごかった、このランバーラインを埋め尽くすほどのアラミゴ難民が列をなしていたって」
四年前のことだ。
廃王と帝国から責め苦を受け、尊厳を奪われたアラミゴ民は東部森林へと至ったが、ようやくたどりついたグリダニアにおいても冷たく拒まれ、より南へと進むしかなかった。疲弊しながらもザナラーンを目指す彼らをさらに襲ったのは、黒衣森に住まう盗賊たちだったのだ。
「だいたいのやつが身一つなんだけどさ、たまに貴族なんかも混じってて、そういうのはせせこましいからキャリッジいっぱいにお宝を詰め込んでのろのろ歩いているわけ。そういうのを捕まえて身ぐるみ剝がすのは簡単なんだ。入れ食い状態だったんだよ」
見てきたわけでもないのに、ニコロワは興奮気味にそう語る。
狂乱騒ぎは鬼哭隊が警備に乗り出すまで続いた。ザナラーンに辿り着いた難民たちはそこに小さな集落を築き、国境が閉鎖されたアラミゴから逃げ出してくる民はわずかになった。男とニコロワが盗賊になったのは、祭りがおおかた終わったあとのこと。罪なき民が受けた怒りも痛みも、黒衣森のほんの僅かな傷にもならなかったのだろう。
「俺もその頃盗賊になっていればなあ」
あれ以来エオルゼア各国は迫りくる帝国軍にどう立ち向かうか決めかねている。軍備は強化され、人々はかすかに飢えを覚え始める。しかしほとんどの人間にとっては、目の前に降りかかる火の粉が燃え上がる大火にならない限りはかかわりのないことなのだろう。現にニコロワは肩を落としている。明日には帝国が攻めてくるかもしれないと人々が噂しているというのに、年頃の青年の頭にあるのはどう奪い、どう嬲るか。あの森都への幼い反抗心をどう満たすか、ただそれだけだ。
「貴族の中には、ものも分からないようなきれいな女もたくさんいたってさ。足を開けば助けてやると言ったら喜んで奉仕したって。先輩たちはいいよな。俺も女を犯してみてえよ」
「精霊に訊かれるぞ」
いつまでも回り続ける口をいい加減鬱陶しく思い吐いた言葉に、しかしニコロワはさっと黙り込んだ。突然降り落ちた沈黙に、間の抜けた風の音が鳴る。
仮面の奥にある幼い瞳が丸く見開かれて、緊張に強張った。
「…き、聞かれているのかな」
「さあな」
男はかろうじて笑いを堪え、目をそらした。
盗賊に身をやつしても、精霊の怒りを買うのが恐ろしい。ニコロワだけではない。その不安はこの森に住まう誰もが抱えている。だからこうして仮面をかぶって、精霊に見つからないようにこそこそと動き回る。
「な、なあ。トーマは怖くないのか?」
「何が」
「怒りをさ…」
「本当に精霊の裁きがあるのなら、俺たちはとっくの昔に死んでるだろ」
触れてはならない草や、踏んではならない花がある。それはその一点だけ靄がかかっているように、男に感じ取れていた。それは己に流れる血の半分が道士のものであった故だろう。だが、彼らは気づかず、花を踏み、草に触れる。目の前を彷徨う綿毛や精霊に気付かない。だからだろうか、定期的に誰かが正体不明の病で死ぬ。彼らは暴力を振るいながらも、内心では見えない精霊に怯えている。男に教える義理はなかった。本当は仮面に意味などないのだと知っていても、仮面を被り、無知であるふるまいをしながらもそれらを避けていた。
ニコロワの仮面の奥の瞳に尊敬が宿った。グリダニアを忌避しながらも、その風習にどっぷり浸かっていたニコロワにとって、盗賊暮らしは常に罰を恐れるものだ。だから、何も畏れようとしない男のことを、勇気ある者として讃え、尊敬している。それはバカらしいことだが、男にとっては都合が良い。
ふいに、ニコロワの耳がピクリと動いた。
遅れて男も、彼方からやってくる蹄と車輪の音を聞いた。
「チョコボキャリッジだ」
ニコロワが囁いた。二人は顔を見合わせると、男はつがえた弓を、ニコロワは槍を持ってそっと街道の先を見た。
やがてザナラーンの細かい砂粒を車体にまとわせた一台のチョコボキャリッジが坂道を駆けあがってくる。きしむタイヤの音、チョコボの蹄の音から、中に詰め込まれている荷物が重たいことが伺い知れる。今この瞬間に、木陰のあちこちに潜む盗賊に見られていることをチョコボキャリッジの乗組員は知らないだろう。
「やっとだ。なあ、あの荷台に何積んでると思う?布とかさ、ああ、飯でもいいんだよ。魚とか肉とか」
今にも飛び出していきそうなニコロワを抑え、男はその車体に描かれているものに目を止めた。
「紋章だ」
貧乏ゆすりを止め、ニコロワが不安げに男を見る。
「どこの」
「待て」
男は目をこらした。
襲っても良い商人と襲ってはいけない商人をかしらは定めていた。襲っても良い商人とは、社会的身分のさほど高くない者たち、避けるべき者は、一国で名の知れた者、あるいは。
「リムサロミンサ」
車体に見えたのは赤く染め上げられた船の旗印だったのだ。国そのものを背負ってゆくキャリッジは絶対に手を出せない。森都、海都両方から何らかの制裁を受けることになる。
ニコロワがへたり込んだ。
何も知らないチョコボキャリッジは優雅に走る。
盗賊の首領は臆病で、けれど狡猾な男だった。彼は己の部下を厳しく律した。襲う行商人は常に選び、殺しはしない。そのおかげで彼らは鬼哭隊の追手から逃れ続けることができている。
獲物を殺すなと厳しく言い回るのは、精霊に殺人を咎められるのを恐れるためだったが、それもまた追手が付かない要因の一つだった。略奪におよべるのは首領が襲っていい存在と定めたものだけ。そうして得たグリダニアやウルダハの商人の財産は、首領が自らリムサロミンサへ売りに行き、大半はかしらの懐に入り、部下に分配される。彼らの日々は見張りや食うものを探すことに大半の時間を割かれる。盗賊と言えば聞こえが良いが、実際のところ、暗闇に身を潜める臆病なならず者でしかない。
ニコロワはそれに気付かないまま飢えている。
「はやく誰か通ってくれないと。もう豆料理はこりごりだよ」
成長期に栄養が足りていない身体は、ひときわやせて小さく、みすぼらしく見えた。森都に残っていれば、シェーダーとしての差別を受けることはあっても、決してこんな風に、食べるものに苦労し、物陰に隠れて生きることにはならなかっただろう。ただ、そのしなやかな若木は慈しみ育てた庇護から離れ、孤独の道を歩みだそうとしている。その幼い瞳には、悪徳への憧れが強く輝き、それは己を瘦せ細らせ、精霊の制裁におびえる結果になろうとも、破滅へといざなわれて行くのだろう。
男はニコロワの隣に腰掛けた。細いうなじに浮き出た骨のかたちは彼の肌色と相まって老木の節目にも思えた。
それから何台かのキャリッジが通過していったが、どれもこれも彼らの望むような宝を抱えてはおらず、日の傾く頃、ニコロワの腹の鳴る音が止まなくなって、ようやく男は立ち上がった。

▽▽▽

ゲルモラの遺跡は黒衣森に張り巡らされたアリの巣だ。森都に馴染めぬ者たちがいまもなおそこで暮らしている。首領はイクサル族をこの森から追い出した絶対王ガルヴァンスの従者の末裔と宣う。男は鼻で笑ったが、彼に従うシェーダー達はどうも信じ込んでいるらしい。盗賊に身をやつした彼らは、灰色の肌の下に、陽光を浴びて生きる人々への憎しみを抱いていた。それが憧れや嫉妬であることも男にはよくわかる。
陽光と共に生きることを選んだ者たちは、もはやかつて自らの祖先が住んでいた遺跡がどれほどに広く点在しているかを知らない。定期的に居場所を変えるシェーダーたちを追うことはできない。首領は用心深く、数か月ごとに盗賊たちは根城を変える。
入り組んだ獣道を歩み、崩れかけた洞に踏み込めば、薄明かりの灯された洞穴は意外にも広々としている。いくつかの小部屋に分かれた洞窟が、かつてどのように扱われていたかはわからない。シェーダーの血に刻まれているのだろう。丁度夕食どきだったのだろう、広間に使われる大部屋には数人の男たちが円座で酒を飲み交わしている。上座には首領もいて、女に酌をさせ、酒を飲み、彼らの話に耳を傾けていた。首領は男とニコロワに気付くと手招いた。
「どうだ」
首領は齢60を越える頑強なエレゼンだ。十数人のならず者を引き連れるだけの威厳で二人を見た。ニコロワの身体は緊張と焦りで強張っている。
男は口を開く。
「成果はありませんでした」
「よさそうなキャリッジは通ったんすけど、でも、襲えなくて」
首領はニコロワの焦りにはいささかの興味も無い。
「公用車は通ったか?」
「公用車?一台だけ」
「どこへ」
「ウルダハからグリダニアへ」
「近頃多いだろう。三国だけではない。イシュガルドや更に他国の車もだ。見かけたか」
「リムサロミンサのキャリッジです。他には見ていません」
首領は顎を撫で「そうか」と呟いた。
「また見かけたら報告しろ」
男は頷いた。
「もう良い、休め」
「ありがとうございます」
女がちらりとこちらに視線を投げかけた。無視して男は踵を返す。ニコロワが慌ててついてきた。
「ああ緊張した。おかしらは怖いよな、トーマはすごいよ」
大鍋の底に溜まった豆の残りを掬いとっていると酒を片手にジェラールがにじり寄ってきた。
「トーマ、ニコロワ。公用車が通ったと言っていたな」
「はい」
「なぜおかしらが気にかけておられるか分かるか?」
「いいえ」
「近々幻術皇が変わるんだと」
「幻術皇が?」
器に顔を突っ込むように豆を貪り食っていたニコロワがはじかれたように顔をあげた。
にやにやと笑うジェラールはうわさ好きだ。森都で起きた出来事をどこからともなく聞いてくる。そうして得た情報を世間に疎い若者に話して聞かせてやるのが何より楽しいのだ。
「先代の幻術皇は?お隠れになられたのか?」
ニコロワが問いかけると、「死んだわけではないようだ」と首を振る。
「高齢を理由に退陣するらしい。いや、爺なんてどうでもいい。それがな、次の幻術皇候補が、これが才女であるという話だが、なんとまだ12歳になったばかりだとよ」
ええ!とニコロワが驚きの声をあげた。男にとっても、それは意外な情報だった。
角尊というのは、皆少年のような風貌でいて何百年も生きる超人的な人々だ。エレゼンでもヒューランでもない、突然変異によって生まれる人々は、ここグリダニアにおいては最も森に近しいとひれ伏される。
しかし12歳とは、見た目と中身の歳が何ら変わらぬ角尊ではないか。
男の脳裏に、豊穣神祭壇と碩老樹瞑想窟が思い出された。敬虔なる幻術士と道士たちがそこに集っていた。あの頃、信仰とは山奥の寒空の下だけではなく、深い森にも生まれているのだと知ったのだ。熱心に祈りを捧げていた彼らが、幼い娘を祀り上げると決めたのか。
「グリダニアでは、もう新しい幻術皇の似顔絵がばらまかれていたぜ。ありゃ良い女になる。成長が早々に止まってしまわれんと良いがな。な、角尊ってのも、やっぱ孕んだりするんかね」
ジェラールに、ニコロワがおどおどと首を振った。
「なんだよ、ニコロワ」
「幻術皇をそんな風に言うのは」
「なんだと?」
「…バチがあたる…」
は!とジェラールは冷笑し首を竦めたニコロワを威圧するように睨みつけた。
「てめえは本当につまんねえ奴だな、何が罰だ。グリダニアがシェーダーに何してくれたってんだ?幻術皇を褒めてよ、媚びへつらって、それで何が貰えるって?」
目の中に昏い色を宿したジェラールが吐き捨てると、ニコロワは口を噤んで豆に視線を落とした。男は歓談する他のエレゼンたちがみな、我々へと聞き耳を立てていることに気付いていた。グリダニアと、そこに住まう人々に対する鬱屈とした感情が、月明かりのない放棄された文明の残骸に満ち満ちている。
ふと視線を感じ顔をあげると、首領に腰を抱かれて女が酌をしている。暗い色をした背の高い男に囲まれて、小柄なミコッテの女は特別やわらかく繊細な家畜のように見える。女と目が合うので逸らすが、頬にはちくちくとした視線を感じて、うっとうしい、と男は思った。
首領が女の身体に触れたのか、女が悲鳴のような笑い声をあげた。
ニコロワやジェラールは酒を飲みたがったが、男は固辞し早々に寝床へ戻った。放棄された古代遺跡の狭く天井の低い小部屋が男の住処だ。粗末な布を毛布がわりに被り、冷たい岩の上で横たわり目を閉じる。
幼い角尊を思った。彼女は精霊の声を聴くのだろうか。角尊の少女は肉の喜びも酒も知らぬまま、修道へ至り精霊の声を聞くだろう。女は精霊の声など気にも留めず、愛欲に耽るだろう。そしてそれはおそらく、どちらもたいして変わらないのだ。
想像の中で踊る白角の生えた少女は、いつしか森から雪荒ぶ平原へ至り、精霊の歌声はドラゴンの咆哮となり、男は我の在処を忘れた。

▽▽▽

見張りをしていた。
ニコロワはジェラールらに連れられ食料を探しに出かけた。男は一人、ねぐらのある洞窟そばの見張り台に腰掛け、結界の張られた砦を見下ろしている。雑木や茂みに囲まれた洞窟の入り口はよほど目の良い狩人か同業者でなければ気付かない。見張りの仕事は皆嫌がる―――鬼哭隊やクォーリーミルの猟師が好んで近寄らぬ森の奥を見張るなど、ひどく退屈だからだ。葉の震える音、己の身体を押し包むように吹く風の、そうしている間にも精霊がただひとり見張りをする自らの傍を舞っているのだと思うと、誰もが背筋が凍えるような恐怖を覚える。男は数少ない例外で、だから一人きりになれる見張りの時間を存外好んでいた。
ブラッドカーラントが真っ赤な果実を蓄えていた。毟り取って含むと、甘酸っぱい草の臭いが口中に広がった。街道や茂みに目をくばらせながらもその耳は絶えず精霊の歌を聞いていた。
人を離れ、獣を離れ、黒衣森の最中にいると、唐突に自らの存在が自然の一部であり、自然の子であると悟るのである。樫の幹の一部となり、蜘蛛の足の一本となり、鳥の羽根の一枚となり、言葉を喪失し四肢を溶かしこの大地を生まれ落ちたゆりかごとする。ここで生まれた精霊のささやきは子守唄として響き、死者の為の歌でもある。男は森が好きだった。既に顔も思い出せなくなった母の面影はいたるところにあったのだ。
踏まれた小枝が折れる音が、満ちていた沈黙の均衡を崩した。エレゼンよりも軽い身体が無遠慮に枯れ葉を蹴りあげながら近づいてくる。無視していると背中に柔らかな双丘が触れた。
「ねえ、トーマ」
女が耳元に囁いた。三日月の浮かぶ爪が顎を掴み、男の仮面を奪い取った。女の柔らかく小さな唇が押し付けられた。男の頬に這う指は男たちの誰よりも細い。髪色と同じ色をした尻尾が男の身体にからみつき、愛撫を求めて柔らかく跳ねるのを、やっと男は顔をあげて女を見た。気の強い目をした首領の愛人であって、仮面は付けていない。
「トーマ、どうして無視するの」
女は怒っていた。巨体に絡みつくように寄り添い口付けを重ねる。真から怒っている訳ではない。手を出すのならば許してやると、試されている。
「昨日もあたしを無視した。あたし、ずっとあんたを見ていたのよ。でも、一度しかこっちを見なかったし、すぐに目を逸らした」
「皆に気付かれるだろ」
女のとがめる言葉は理不尽だと思った。
「臆病ね」
女は嘲笑し、ねえ、と男の太い首に縋った。
「あの人今日は帰らないの。リムサロミンサへ行ったのよ。だからあんたと遊んであげる」
男がみじろぎひとつ取らずにいると女は太い太ももに腕を這わせて股間に手を伸ばす。
「置いていかれたんだろう」
形の良い瞳は男を睨みつけた。
「あんな人の話やめてよ」
「おまえの主人だ」
「今はあんたの女よ」
ボタンを外す指を拒まずにいると、やがて女はたくしあげたスカートの下を男の腕に擦り合わせた。今度は止めず、したいようにさせて、女の素肌へ手を這わせた。皮膚はやわらかく熱い。
エレゼンの遅い成長期が終わってしまえば、少女と見まがう柔肌は失われ、木皮のように固い皮膚へと変わる。女はいまだ柔らかく艶やかな肌を失ってはおらず、このシェーダーの男ばかりの集団の中においては、立ち並ぶ雑林の中のただひとつ咲く花のようであった。なめらかな肌のかたちを確かめるかのように掌でさすってみれば、女は熱い吐息を漏らしみずからも男の一部を勃たせようと両手を男の一物を掴むと上下にこすり上げる。女の腰から延びる尻尾を掴めば愛らしい悲鳴をあげて身体を竦ませる。
女は首領の愛人だった。いかなる事情でここに辿り着いたのかは分からない。ウルダハの高級娼婦であるだとか、借金を抱え自殺した夫婦の遺児であるだとかさまざまな噂は飛び交っていたが、ともかく首領がある日連れてきて、そして愛玩している。確かに若く美しいミコッテの女であった。はじめは首領の影に怯え隠れ潜むものであったその娘は、与えられるアクセサリーや上等なドレスを喜び、首領の愛人であるという地位が部下の男たちが皆かしづくものであると気付いてからというもの、日に日に誇りと自信を身に着け奔放に生きている。いつしか首領との性行為に飽き、大胆な不貞を望むようになった。そうして男を見初め、男は伸ばされた手を拒むこともなく、若さゆえの破滅的な秘め事は繰り返されていた。
女の掌で自身に刺激を与えられていると、次第に頭の奥がつんと傷む。尻を掴み誘導すると、その肢体は男の身体にまたがって、一部を受け入れはじめた。
ちいさく悲鳴をあげながら己の身体を揺さぶる女は男の身体に抱きついて呻く。男もまた、こみあげてくる精をあやし、女の腰を抱いて繰り返し内臓を貫いた。女がくりかえし、「トーマ」と呼んだ。それは縋るような声だった。
女にとって誤算だったのは、遊び程度に誘った男を自身が存外気に入ってしまったことだろう。盛りを過ぎた首領の愛人が成人を迎えて間もない男を誘惑し、導いた。そんなシナリオであった筈なのに、実際のところ手放したくないのはいまや女の方なのだ。汗ばむ小さな顔が男の唇に貪りついた。男は両手で女の頬をくるみ、笑いながら口付けた。
「ねえ、リムサロミンサへ行ったことはある?」
女が問いかけた。みずからの中に貯め込んだ快楽を吐き出して一瞬の、何もかもが白く霞む視界に身をゆだねた。
「ない」
「ウルダハは?」
「それもない」
「じゃあイシュガルドは?」
返事をしないでいると、「あそこは入れるわけがないか」と女は呟いた。
「イシュガルドのエレゼンは、あんたたちとも、グリダニアの人たちとも違うんでしょ?角とか羽根とか、生えてるのかもね」
羽毛かもしれない、と、男が軽口を叩くと、腹を抱えて笑う。
「ねえ、今頃あいつは船に乗っているのかな」
さっきまで笑っていたと思ったら、もう寂しげな顔をする。
起き上がった女が横たわる男の上に覆いかぶさった。
「どんなところでもここよりはまし。朝から晩まで精霊に怯えて、洞穴の中で灰色の男に抱かれて一生を終えるなんて。あたしの肌はまだ陽光を浴びていたいのよ。ねえトーマ。あんたはこのままグリダニアの中だけで、それで一生終えるつもりなの?。たとえば海には興味ないの?船に乗りたいとは思わない?」
海も海に浮かぶ船も、男は見たことがなかった。鏡池よりも、どんな湖よりももっと大きく潮の味がするのだと聞いている。雲海のようなものだろうか、と想像するが、浮かべる景色はいつもあてどなく、薄い雲のかかった空のようにおぼろげだった。
口が乾いていた。煙草に火をつけると、しなやかに伸びた指に奪われた。
「返せ」
追いかけると、丸く見開かれた猫の瞳が男の緑の瞳を見上げる。
「あんた、本当はどこから来たの?」
「どこって、グリダニアだよ」
「うそ」
煙草を取り返そうと伸ばすと、腕を後ろに回してますます遠ざける。女の目は丸い。丸くて大きい。それは何もかも見透かそうとするように男を見下ろした。
「あんたみたいに綺麗な男、見たことない。肌の色はシェーダー族のものだけれど、その眼、その表情…洞穴で生まれたあいつらに、そんな顔はできない」
片手で掴み上げてしまいそうなほど小さなミコッテの女は、しかし種としての強気ゆえか、尻尾と耳を吊り上げてまくしたてる。
「あの人にあんたのことを聞いても、はぐらかしてしか答えてくれない。あたしみたいに拾い上げたと言っていた。あんたはあの人のお気に入り。ねえ、その刺青だって首領に彫って貰ったんでしょ?あんたに刺青を彫ったことが誇りだって、いつか言ってた。でも本当は、あんたは他の奴らとは違う」
「なぜそう思う」
「女の勘よ」
少しだけ、男はこの女を見直した。ただ頭が空っぽの媚びるしか能のない猫だと思っていたのであるが、少なくとも同胞らよりもずっと人々の仕草を、癖を見つめていたのだ。少なくとも、ニコロワも首領も、他の盗賊たちも、男が純血のシェーダーだと信じている。男もそうであると振舞っていた。
「ねえ、どう?あたしの言ったこと、あってるでしょ」
誇らしげな女の隙をついて煙草を奪い返す。あ、と焦り声をあげた女が掲げられた煙草を追うのを抱き寄せ、もう片手で耳を掴み上げた。手に絡みつく細い毛を引っ張ると、女の身体がのけぞる。
「俺がシェーダーでなければ、何だ?」
女が息をのんだ。
「なあ、俺は何者だ?俺はシェーダーだ、俺の血はグリダニアを憎んでいる。そうでなければここにいれるはずないだろう?俺が何者なんだったら、おまえは満足するんだ?」
覗き込む猫の瞳に自らの顔が映っていた。その男は緑の目をして、灰色の肌をしていた。
「…なんだっていいわ。あんたは、あんただもの…」
猫が、蕩けるように囁いた。伏せた瞼によって男の顔は隠され、偽った出自の事実は淫蕩の陰に伏せられる、
裸の身体が冷めた熱を追い求めるように男へと被さった。男は抱きとめて、草木の萌える大地にその身を横たえた。
「ね、あたしが秘密にしてあげる。誰にも言わないから。あたし、口は堅いのよ…」
そうか、と、男は頷いた。

帰りたい、帰りたいと母は繰り返していた。大貴族の屋敷の、一番狭い使用人の部屋で、生きたまま腐っていった。重い病に犯され、最期の数年は立ち上がることも出来ず、一日中ベッドの中で気が触れていた。
瘦せ衰えた皺だらけの唇で、精霊を讃える歌を歌い、祝詞を唱え、そのどれもに精霊が言葉を返してくれないことを嘆いていた。森へ帰りたい、と泣きながら、最後まで小さな部屋からは出られなかった。

生まれ故郷に行ってみたかった。だから、イシュガルドを離れたとき、南下を選んだ。
ひたすら南にくだって訪れたグリダニアには山はなく、雪もなく、ただ、母の歌の通りの景色をしていた。
幻術士ギルドの門を叩いた。精霊の声を聞き人々を癒したいと願えば、愛らしい青年のあり方を皆喜んだ。妻を持たない老いた同士に弟子入りし、寵愛と教えを受けた。
母が愛した精霊を知りたかった。だから喜んで祝詞を唱えた。人を癒す力を会得し、森に吹く風を読んだ。
長くは続かなかった。道士になるためにはここで生まれ、ここで育たなければならなかった。森の外から来た、遠いお山を下りてきた。それではいけなかった。おまえはシェーダーだから本当の民の声などわからないのだよと老いた道士に告げられた。すべての行いはフォレスターが優先されていた。母もまたかつて分かたれたエレゼンの同胞のけっして正統とはされない種であったと男ははじめて知った。
信仰と差別。
閉塞とした祈り。
イシュガルドとグリダニアはよく似ていた。
否、人の群れとは、どこまで行っても同じだと、ただそれだけのことだったのだ。

森を放浪し、盗賊団に入った。自分は純血のシェーダーであり、フォレスターに虐げられてきたと告げた。
首領は恵まれない境遇の見目美しいシェーダーをいたく気に入った。弓や槍を学び、人を襲うすべを知った。祈りの為と褒められた喉で、侮蔑の言葉を吐いた。成長期を迎え、頬に刺青を彫った。けれどもそうしてなお、耳の奥に吹雪の音が、ドラゴンの咆哮が聞こえる。母の歌声が聞こえる。掃除道具を持っていた手は、杖を持ち、弓矢を持った。

そうして、男はここにいる。

「ここからでたい」
手早く衣類をまといながら女が吐き捨てた。
「もう洞穴暮らしと不味い豆料理はうんざり。森から出る為だったら、あたしなんでもするわ」
女の眼がこちらを見る。曖昧な微笑みを返せば、肯定ととらえたのか、顔を少しだけほころばせ足早にねぐらへと戻っていった。
若く危うい橋を渡ったばかりのひとびとが情事の痕跡ひとつ残していないことを確認し、男はふたたび見張り台に腰を下ろした。情事がはじまった頃から身を潜めていた精霊たちが歌いはじめていた。男には、その歌声が亡き母のものとよく似ているように聞こえている。

ニコロワの持ち帰った食料はキャベツと紫の果菜と緑の豆で、到底腹は満たされないだろうと詰られうなだれている。それは北の森で収穫される野菜で、獣を狩れなかった彼が畑から盗んできたのだというのは明白だった。ジェラールたちは殺したアンテローブの皮を剥いでいる。角と腱と、鞣した皮はウルダハやリムサロミンサの商人へ高値で売れる。血の抜かれた肉から白い皮が剥がされてゆくのを、ニコロワは恐ろしげに見下ろしている。男は近づいて強張った肩を軽く叩いた。
「また狩れなかったのか」
唇を噛んでニコロワは首を振った。
「弱虫のおぼっちゃんはな、精霊の怒りが恐ろしいんだとよ」
盗賊たちから煽るように野次が飛んだ。
「道士サマの言いつけに従って飯が食えるかよ」
「俺は…」
ニコロワの目に涙が浮かんでいた。「俺は…」震えた唇から、ぱた、ぱたと苦しみが漏れた。どうしても、つがえた矢を放つことができない。狩るぞ、今日こそは殺すぞ、と、言い聞かせても、どうしても脳裏に道士や幻術皇、精霊の怒りが浮かんでしまうのだという。男はニコロワを憐れんだ。彼はどうしようもなく、森にふさわしくはなかった。

▽▽▽

首領は数日経って洞窟へと戻ってきた。駆け足の旅であったようだが、女にはリムサロミンサの上等な絹を与えていた。飛び跳ねる女が背伸びをして首領のこけた頬に口づけをしていた。
それからみなを呼び集めた。
集められた十数名のシェーダーの、一様にくすんだ灰肌を見下ろし、首領は、かつての絶対王がそうであったように睥睨する。ほとんどの者が、グリダニアを憎み、シェーダーである自身に卑屈さと誇りを抱いている。
「リムサロミンサの商人に聞いた。新たな幻術皇の就任は半節後だ。グリダニアではすでに儀式が始まっている。いずれ、各国の商人から貢物が運搬される。狙い目はウルダハの商人だ。奴らはあさましい。新たな幻術皇に名を売ろうと、宝物を我先に運ばせるだろう。中にはグリダニアの悪路を知らぬ者も当然通る。ギルをケチって夜半に手薄の警備で運搬する商人を狙え」
首領の言葉は盗賊たちの合間に響き渡った。すべてのシェーダーの父で在ろうとするかのようだと男は思った。
「明日の朝ここを発ち、ロウアーパスのねぐらに移るぞ。準備にかかれ」
盗賊たちが歓声をあげた。
強く肩を叩かれ振り返ると、ニコロワは頬を染めて「とうとうチャンスが来た!狩人になれるんだ!」と拳を握り締めていた。「絶対に成功させるからな、見ててくれよトーマ!」そうか、と頷いた。
盗賊たちはにわかに戦争の準備をはじめた。鞣した皮は食料ではなく、弓矢に交換されることとなる。呪術を得意とする数名が砦を引き払うために術を解きはじめている。女が絹を抱えて、「じゃあもっと綺麗な宝石が貰えるの?」と跳ねていた。
その夜は、いつもの味の薄い豆料理の他に、珍しく干し肉が振舞われた。「景気づけだ、おまえたちには頑張ってもらわなければならないからな」と首領が盃に酒を注いでまわり、盗賊たちはいちように感謝し、かつてこの洞窟を支配していた絶対王の名を唱えては酒に口をつけた。精霊よりも大きな声で、誰かが歌を歌っている。
「かしらは素晴らしい人だ。俺の父上よりも何倍も正しい人だ」と、酔ったニコロワが何度も繰り返し、男に同意を求めていた。
「トーマ」首領が近づいて、濁った酒を男の盃に注いだ。「おまえも飲め。幹部から聞いているぞ。ニコロワをよく教え、皆がやらない仕事を率先してやっていると。おまえは本物のシェーダーだ」
「俺は首領に拾われただけです」
「いや、儂がその刺青を彫った。俺が決めたことに間違いはない」
男ははじめて出会った時よりも少しばかりこの盗賊の主が老いていると思った。目元の皺は、かつてひれ伏した時には無かった。男はまだ子供だった。気付けば、立ち上がれば見下ろすほどだ。女が拾われる前、己の背が伸びる前までは、女が傅いていた席に男が座っていた。ニコロワは知らない。男が女のように酒を注いで、腰を抱かれていたとは知らない。
首領の目はあの頃と同じように光っていた。それで、男は唇の端をほんの少しだけ持ち上げた。
「あんたは全てを教えてくれた。狩りのすべも、洞窟での生き方も、シェーダーの誇りも」
「そうだ」
「あの女が座っていた場所が、俺の席だった」
「妬いているのか?」
「案ずるな」
首領は頷いた。
「あれは所詮、頭の空っぽな猫だ。おまえとは違う」
本心を吐く首領は男に心を許している。それが分かって、男はそうなんですか、と問いかければ「俺を父と思えば良いと、そう言っただろう。今でもそう思っているか?」と首領が問いを返す。男は首領の目の端にある皺が以前よりも増えていることに気付いた。ニコロワが森都から訪れたように、男もまた森都から訪れた。杖を捨てて分けはいった森で槍を突き付けられた。「フォレスターの道士に虐げられてきた」と涙ながらに訴え、名を聞かれ、トーマと名乗った。
首領の肌は男よりも暗い灰色だった。その耳は男よりも小さかった。目は茶色だった。髪も昏い茶色だった。何より精霊の歌声を聞いてはいなかった。森に生き、滅んだ国に縛られていた。森都を憎んでいたが焦がれていた。陽光を憎んでいたがその下を歩きたいとも願っていた。だからフォレスターに虐げられているシェーダーという物語を何よりも好んでいた。森を追われたイクサル族のように、自らの存在もまた森に認められてはいない。だがこの大地は本来は我らのものであった。それがシェーダーの誇り、というものだった。
男はにっこり笑った。
「ええ。勿論です。あんたは俺の父だ。必ずこの刺青の恩に報いります」
まさしく求めていた返答だったのだろう。首領は満足げに頷いた。酒器に残った酒を飲み干すと、立ち上がり、男の髪をまるで父親がそうするように、乱暴にかき乱した。ニコロワとミコッテの女がこちらを見つめていた。その二つの視線のどちらをも無視し、不味い酒に口をつけた。

翌日、盗賊たちは拠点を移した。
「いつも思うけれど、トーマは荷物が少ないんだね」と、両手いっぱいに荷物を抱えたニコロワが目を丸くしている。
ロウアーパスの森に入り、放棄された洞窟に辿り着く。かつて王国が築かれていたとは夢にも思わなかった。暗闇を好む獣は盗賊の灯したかがり火を避けて飛んでいく。蜘蛛の巣が張り、地下水で濡れた岩肌は、苔と黴で異臭を漂わせ、盗賊らは文句も言わずそれぞれのねぐらを探しているのだが、ミコッテの女とニコロワは新しい住まいに一抹の不安を抱いているようだ。
新しいねぐらはいつも通り、広間から離れた小さな小部屋に決めた。掌を岩壁につけるとひやりと冷たい。
思い立って跪き片耳を地面につけた。脈動する大地の地響きに紛れてか細く精霊の歌が聞こえる。ウルダハとの国境付近に近いからか、その歌声はどこか遠い。
自らの身体に流れる血の半分が精霊の歌を求めている。血の半分が、この大地に生き、この大地で眠りたいのだと告げている。神の恩寵のようなそれは、母の子守歌の記憶であった。けれどももう半分の血は、常に荒涼たるドラゴンの咆哮を求めている。ふたつの血の諍いは時折男を苛み、悪夢を見せた。どちらかを愛する限り、どちらかは必ず男を責めるのだ。
「トーマ」
ニコロワが、部屋の外から顔だけ出して男を見下ろしていた。
「皆が呼んでる。行こう」
立ち上がり、膝や掌についた砂を払う。精霊の歌はあっという間に遠ざかり、ひやりとした沈黙の、色のない洞窟が眼前に広がる。
「何をしていたの」
いぶかしげに問いに男は「精霊の歌を聞いていたんだ」と答えた。はたして、冗談だと受け取ったニコロワの笑い声が薄暗い洞窟にこだました。
「精霊の声を聞けるのなんて、道士さまだけだろ?」

そうだな、と、男は頷いた。