1561(後)

背の高い木が幾多にも立ち並び、陽光を遮っていた。精霊の歌声は中央森林のそれよりもはるかにかぼそく、けれども止むことはなく、それはさながら新たなる幻術皇を迎え入れようとしているように、長く途切れぬことのない歌を歌い交わしていた。精霊の神秘を浴びながら、それに気づかぬ者たちが森を彷徨っている。仮面で顔を隠し、洞窟に身を潜める男たち、古代地下都市の遺民は己を精霊が密やかに許し、受け入れている事実にはいつまでも気づくことはない。
男はロウアーパスを貫く街道の果てを想像した。陽光を遮り生い茂る木々の向こう側には、乾いた砂で出来た国がある。細かい砂を車輪に絡ませた車はウルダハからやって来て、華美な宝石や布を積み荷に、新たな為政者の誕生を迎え入れる。無垢なる現人神への祝福は、幼い少女の喜びそうな玩具から、呪術の描かれた証文まで、宝という宝がいくらでも積み上げられる。それは祝福であり、帝国との対立が深まる情勢不安のなかで幻術皇に対する期待、不安の現れでもあった。
首領の言った通り、常ならば一日に数台見る程度だったキャリッジは、日に日に十台、二十台と数え、一羽で引く小型なキャリッジばかりではなく、四羽引きの豪奢な車両を見つけるのも珍しくなくなっていった。訪れるのは、商人、宗教家、信奉者、敵国、物見湯山の市民まで、あらゆる視線が黒衣森に注がれ、祝宴のきざしは砂漠の果てから森の奥地にまで広がった。

卑しく狡猾な盗賊たちは、はじめに、老いた夫婦が走らせるキャリッジを襲った。慣れないグリダニアの道で、木の根を車輪に絡ませて横転してしまっていた。「差し出せば命だけは助けてやる。俺たちはイクサルとは違って寛容だ」と下卑た笑いを浮かべる盗賊に、ああどうか、それは何十年も新しい幻術皇に捧げるために用意していた品々なのですと懇願していたが、刃先を向ければ最後には従った。
その数日後には、やはり道に不慣れな商人のキャリッジを襲った。道をあやまり、獣道へ飛び込んだ彼は黒衣森の深さも暗さも知らなかった。正しい道を教えてやると首領が言えばかなぐり捨てるように有り金をすべて差し出した。盗賊よりも精霊が、この森が恐ろしいのだと身体を震わせて、転げるような速度でキャリッジが砂漠への道をひた走りに戻っていくのを、盗賊たちは指さし笑った。
「なんだ、簡単じゃないか」と、ニコロワが、夫婦から奪った指輪を両手につけて笑っていた。「見ろよこの金細工。こんなの、グリダニアじゃ見たことないぜ?あんなところに居て、一生蔑まれてつまらなく死んでたら、こんなきれいな指輪だって、俺は知らなかったんだ」
あんまりにもニコロワがそう笑うので、「よかったな」と男は祝福するのだった。

けれど、調子が良かったのはそれまでだ。
黒衣森の盗賊が潜伏しキャリッジを狙っているという噂は、盗賊たちが思うよりも早く流布した。気付けばどれほど小さなキャリッジであっても必ず頑丈な武装が施されるようになった。各国の軍隊やギルドが動いている。異なる鎧をまとった兵士が会話を交わしている姿も頻繁に見かけた。雇われた冒険者たちが厳重に警備するキャリッジは、王族を乗せた車のように厳かに歩む。小鳥の一匹が不意に飛び出したとしても、次の刹那には一斉に矢を射られ、なすすべなく転落していくのだ。
首領や幹部は焦っている。五年前のアラミゴ難民騒動では、彼らは決して手を取り合おうとはしなかった。帝国の脅威が迫る中、エオルゼアの各都市が帝国の脅威に備えるための大規模な同盟を結ぼうとしている、という噂があった。幻術皇の就任は、融和の第一歩であると。いさかうばかりであったあの都市がが?我らシェーダーを受け入れなかった国々が?国と国を横断する大規模な同盟。それが叶えば盗賊たちのような、どこでもないはざまで生きる者たちの居場所は減っていくのだろう。
シェーダーの盗賊。太陽の下に生きるフォレスターを憎み、過去に失われた王国に縋る。日の射さない我らの王国。光に目が慣れることはない。光の下で笑うことができない。それは晩年の老人が、己が老いたことに気付かず青い春を夢想するかのように、痛々しく、哀れなものだった。
こうなってしまえば食糧不足が問題となる。盗品も、市場の見張りが増えてしまったためか、すぐに金に換えられなくなる。そうすると宝石も布も服飾品も、あらゆる華美な道具は、腹を満たせぬがらくたに変わり果ててしまうのだ。
情勢を理解しつつある盗賊たちから、不満の声があがった。ならば、それならば、我らはいったいどこへ行けばいいのか。絶対王のもたらす安堵は、どこにあるのか。今を耐えれば良い、こんな厳重な警備が長く続くはずはない、と、首領が皆に説明するのを、男は幾度か見た。待てば良い、待てばいつか、異なる種族が交わっているだけにすぎない同盟など、崩れ果てるのだから。そうすれば我らが、この、シェーダーというひとつの血統によって連帯する我らこそが正しく生き残るのだ。首領の説得は、ある程度の理解を得られたらしい。ただ、次第に痩せていくシェーダーたちは、病に冒された枯れ木のように節くれ立って、ちっとも正しく、まっすぐ伸びているようには見えないのだ。

女が頬を腫らしていた。
聞けば首領に殴られたらしい。生活への不平不満を並べ立てていたところ、ついに激高されてしまったのだと盗賊たちは囁いていた。洞窟の入り口にしなやかな脚を伸ばし、足下の草をつかんではあてどなくむしっている。
男が他の盗賊たちと同じように目の前を通り過ぎようとすると、服の裾を掴まれた。
「離せ」
振り向くと小さな顔のその半分は赤く腫れていた。見開かれた瞳が男を見上げていた。
「離せよ」
掛かる程度に掴まれた細い指を振り払うと、あっけなくその掌が離れる。と、常ならば毛を逆立てて怒り狂っただろうが、尖った耳を垂らせて女は俯いた。
そうして見れば、シェーダーの男ばかりのこの小さなコミュニティに、ミコッテの女がひとり置かれているのはずいぶん場違いのようで、思わず男は足をよくよく止めて女を見下ろした。確かに愛らしいが、特別に美しいわけでもない、ただそれだけの女だった。男所帯の中にいれば、雑木林に咲く花のように際だって見えるだろうが、森都にいればありふれた頭の悪い女でしかなかった。けれども身につけている場違いな装束はみな盗品で、暗い洞窟でしか生きられないシェーダーに寄り添う身体は月の光を忘れすすけ、汚れているようだ。逃げだそうとしたのだろうか。けれどもそれは叶わなかった。首領に媚び、従い、飽きられる日をおそれ自分が飽きたのだと気丈にふるまって身体を売り続けなければとうてい生きていくことなどできないのだ。
ほんの気まぐれな思いで男は手を伸ばし、女の小さく丸い頭を撫でた。行為の最中掻いてやると喜ぶ、毛の生えた尖った耳ごと撫ぜると、女がはじかれたように顔をあげる。と、みるみるうちにその瞳に液体が溜まり、涙となってこぼれ落ちた。
「トーマ、あたし…」
「分かってる」
男の特に意味もない、それだけの言葉で、しかし女は満ち足りたように笑った。ありがとう、と囁く女はまるで殊勝な娘のようで、いったいどうしてそうも男をよりどころにしたのか。視線を逸らし俯く身体には、しかし先ほどとは打って変わって優しく穏やかな気配があった。

▽▽▽

キャリッジを待っていた。
穏やかな陽は時折雲に遮られ、真昼というのに街道を暗く不穏に見せていた。首領と古参の者たちは頑強に守られたキャリッジを襲う手段を最早半ば諦め、どうやって冬を越すかを考えている。街道を抜けウルダハへと向かう、あるいはイシュガルドへ続く北の街道を目指すという案もあったが、そのどれもは説得力のないまま、囁かれては洞窟の土壁に溶けて霧散する。鬱蒼と生い茂る黒衣森以外のいったいどこで生きられるのか土の色の肌を持つ男たちにはわからない。
またひとつ、傭兵たちに警戒されたキャリッジを見送った。冒険者なのだろうか、杖や槍を携えた傭兵たちは思い思いに煌びやかな装備を身にまとって、そのどれもが盗賊たちの粗末な衣類よりもはるかに丈夫に見えた。体内のエーテル量から、身に纏った装備あるいは鍛え上げられた肉体から、盗賊たちとの力の差は歴然としていた。
「冒険者とか言って、大したやつらじゃねえんだ。キャリッジに張り付いて偉ぶってるだけで金が貰えるんだから良い商売だよな。あいつら金をもらって雇われてるくせして俺たちが見下ろしてるのにも気づかないで金持ちどもの車に魚の糞みたいにくっついてやがる。滑稽だよ」
ニコロワが毒づいた。若木の青年はまた痩せてしまった。今では身体を起こし続けているのもくたびれるのか、木のうろに身体を預けて、やつれて浮き出た瞳ばかりをきょろきょろと動かしている。盗賊たちが貧しく飢えていくにつれ、豆の分配は功績を集めた者を順に行われ、そうしてみればニコロワはいつも最後に、余った豆の皮ばかりを食べさせられる。一人前の男であるとひとたび認められてしまえば虚栄心は他者に求めることもしっぽを巻いて逃げ出すことも叶わない。男が差し出すほんのわずかな助け以外には、盗賊たちはみなニコロワをただの甘えた赤子同様であると侮っている。行き場のない思いはしばしばこうして男にぶつけられた。
「俺たちが本気を出して、武器を構えて一斉に襲いかかったら、キャリッジを置いて一目散に逃げ出すに決まってんだ。ああ絶対にそうだ、あいつらは弱いんだ、弱いんだよ」
男が弓の弦を張り直している間にも、ニコロワの舌はよく回った。まるで力なく横たえた手足を動かすかわりに唇を動かしているようだ。盗賊たちへの直接的な批判は避けているようだったが、思い通りにキャリッジを襲えないこと、それゆえに飢えていくことへの焦りは火を見るより明らかだ。
「ああ畜生腹が減ったなあ。あいつらはグリダニアに着いて、カーラインカフェで飯食って、そんで宿で寝るんだろ?今後ろから殴ってやったら報酬も何ももらえなくて困るんだ。なんで襲っちゃだめなんだ、畜生、俺は盗賊なんだぞ」
「森都へは帰らないのか」
不意に男は問いかけた。
毒を吐くニコロワの口が止まる。しなる枝に張った弦を指先で弾く。
「両親はまだいるんだろう。帰らないのか」
言葉を理解したニコロワの、仮面の下からわずかにのぞく頬がみるみるうちに赤く染まった。拳を勢いよく振り上げるとあてどなく地面に叩きつけた。
「帰るものか!」
半ば悲鳴のような絶叫が響きわたった。
「帰るもんか!父さんも母さんも嫌いだ!」
街道を歩む旅人がいれば足を止めて顔を上げたであろう叫び声に、男は手を止め、弓を地面に置いた。は、と一呼吸おいて、ニコロワが己の口を塞ぐ。仮面越しに見える瞳が動揺で歪んでいる。
「ごめん、俺、おれ、」
「気にするな」
男は首を振ったが、その動作は見えていないのか、震える両腕で頭を包み込むとレディバグのように身体を丸めた。
「へ、変だよな、盗賊なのに、大きい声、だしちゃ、いけないのに、」
「もういいニコロワ、俺も言うべきではなかった」
「分かってる、分かってるよ、向いてないって、み、みんな、俺のこと、だめだって、思ってるって。でも俺だって、俺、俺は、トーマみたいにはなれない」
ひゅーひゅーと喉を鳴らして錯乱した言葉を放つ。かたかたと震える身体は黒衣森にいるべきでも、街道で人と襲う手はずを整えるべきでもないのだと男には薄々分かった。この哀れな青年が盗賊たちに認められるのは難しい。森都で生まれた、両親との些細な不仲から家を出た。同じ肌の色を持つ本物のつながりを求めた。けれども真の盗賊にはなれない。森都で生まれ、庇護されて育ったから。まだ功績をあげていないから、本物にはなれない。
それでも俺よりはましだよと心の中で嘯いて男は掌をじっとりと汗ばんだ背中に当てた。びくりと震える耳に身体を寄せ愛撫するように囁く。
「おまえはよくやっている」
ニコロワの身体の震えが止まった。
「そうだ。一人でグリダニアを出てここまで来たんだろう。覚悟がないと出来ない。皆はおまえを侮っているだけだ」
ニコロワがゆっくりと顔をあげた。信じられないものを見る目で男を凝視する。浮き出た背骨の形をなぞるように掌を這わせ、男は入れ墨をことさらに見せつけるように目を細めニコロワに微笑みかけた。
「俺はおまえがどんなに努力しているのか知っているさ。ニコロワ。俺は分かっている」
ニコロワの仮面の下にある頬を何かが伝った。それは涙だった。慌てて拭うがいくらでも流れ落ちてくる。
「あ、ご、ごめん、俺」
「良いんだ」
「そんな、そんな風に言ってくれるなんて…」
「事実だ」
「はじめて、そんなこと、言われたの」
決壊したようにむせび泣き始めるニコロワの背をやはり男は優しく撫でた。嗚咽は唇を噛みしめても精霊の歌を遮るほど大きい。日がわずかに傾くほどの時間泣き続けようやく喉を詰まらせながらもニコロワが顔を起こすまで男はその背を丹念に撫でた。
「…ありがとう、トーマ。俺、おまえのこと、誤解してた」
涙を拭いながら照れくさそうに言う。
「おまえは俺なんかどうでもいいんだって」
「そんなわけあるかよ」
男が笑いながら返すとそっか、と少女のように赤らめた頬で微笑んだ。仮面を取って目元を拭う。せっぱ詰まった表情はほのかに柔らんで青年の元々の純朴なあり方がよく見えた。
男は空を見上げ、日の当たる位置からそろそろ交代の時間だと推測した。腹を空かせたニコロワも今日は躊躇なく豆がほしいと言えるだろう。立ち上がり行こうと促そうとすると不意に座り込んだままのニコロワが「なあ、トーマは?」と問いかけた。
「何が」
「ずっと気になってたんだ、トーマはどうして盗賊になったんだ。親は?家族はいないのか」
「どうしてそんなこと気にする」
「どうしてって…仲間だからさ!トーマ、全然自分のこと、話してくれないだろ?でも、俺だってもっと、トーマのこと知りたい。そろそろ教えてくれても良いじゃないか」
なれなれしくも様子をうかがうように問いかけるニコロワが持つ連帯感をその瞬間強烈に眩しさを覚え、ならば何もかも話しても良いのだろうかと不意に思う。
「殺したよ」
幹をぬって吹く風がニコロワの栗毛を揺らしていた。男にはその風がはるか望郷、クルザスの山間から吹くものであるのだと想像した。父の死、母の死とはいつでもそれだけ近くに存在していたのだと声として発してはじめて悟った。
空を見上げる。綿毛たちの姿はない。
「殺した、って、」
やはり話すべきではなかったとこみ上げるかすかな後悔から目を逸らし、ニコロワの唖然とした声に背を向けて歩き出した。手首を掴まれ強引に引っ張られる。
「トーマ!なあ、今殺したって。殺したって言ったよな」
「そうだ」
殺した。殺したのだ。父も母もこの手で殺めた。己の顔を見、それが我が子だと気づかぬほどに狂った母と、それが我が子だと気づかぬまま母のように犯そうとした父だった。その屍は遠いイシュガルドに置き去りにした。
振り払おうとしてニコロワの瞳に宿るのが尊敬であると気づき、男は虚をつかれて見下ろした。
「なあ、殺すって、どうやって殺したんだよ」
「なぜ、そんなことを聞く」
殺した。屍は今も脳裏で横たわっている。そのありさまと、目を輝かせたニコロワの幼い顔が折り重なった。
「俺も殺したい」
「なぜ、」
「なぜって、決まってるだろ!」
男の胸を掴んで声を荒げた。
「父さんも母さんもフォレスターに媚びを売って暮らしてるんだ!自分達は生かされてるにすぎない、だからグリダニアに、道士様に、幻術皇に感謝しろって!日向ををビクビクしながら歩いて、フォレスターどもに頭を下げて!シェーダーの誇りを持たないんだ。なあトーマ、トーマなら分かるだろ!殺してやったほうがいいんだ」
雲の切れ間から差し込む陽がニコロワの上気した頬を照らす。穏やかな木漏れ日の下で、子供の名残を抱えた青年が親殺しを叫んでいる。それは男にとっては何もかもがまばゆく思えた。
「おいおまえら何やってる」
二人の重苦しい沈黙を遮ったのはジェラールの咎める声だった。男のむなぐらを掴むニコロワを見やり喧嘩だと合点したのか眉をつり上げ歩いてくる。
「獲物にありつけねえからってサボるんじゃねえぞ」
すみません、と小さな声でニコロワが手を離すので、男は一歩、二歩下がって砦へと足を向けた。立ち尽くすニコロワから目を逸らす。痛いほどの視線が背中に突き刺さった。

▽▽▽

ある夕暮れに、あの綿毛たちや見たことない葉のかたちをした生き物が空を覆い尽くすほどに舞い、グリダニアの神聖なる大木へと向かっていくのを目にした。
人が一生願っても飛べぬ空を、異形の種族が飛んでいく。それで、新たな幻術皇が黒衣森に住まうすべての人の中で、もっとも尊い席に坐したのだと知った。
森は讃えるだろう。グリダニアの良き市民は感謝するだろう。エオルゼア諸国は歓迎するだろう。森に住みながらその生誕を祝えぬ者たち。今は亡き国の血統を貫き、日差しに焦がれながら日差しを憎み、窟の暗がりを愛しながら飽いている。目に見えぬ精霊に恐れ、怯えながらも森にしがみついてしか生きられない。彼らすらも、幼く上り詰めた幻術皇はその澄んだ眼差しで見つめるのだ。

▽▽▽

せわしなく駆けるチョコボの足音と、重い荷台を転がす車輪の音が、街道の彼方から聞こえた。それはひどく急いて慌ただしい。
「あ」
キャリッジの姿を認めたニコロワが息をのむ。
「警備がいない」
グリダニアへ続く緩やかな坂道を駆けのぼるのは一台のちいさなキャリッジであった。繋がれている黄金色のチョコボも小柄で、その荷台は小さいがしかしチョコボや荷台を装飾する花々は祝いに使用されるものばかりで、それはここしばらく飽きるほど見やり見過ごして行ったキャリッジと同じ意匠が凝らされている。違っているのは、それを守護する冒険者あるいは傭兵の姿がひとりたりとも見えないことであった。
男は弓を構えた。新たな幻術皇の即位から数日余。特別なキャリッジを見ることもすっかり無くなり、森が冬ごもりの支度をはじめ、葉が赤く色づきはじめたいつも通りの日のことだ。
「ニコロワ、おまえは御者を押さえろ」
荷台の大きさからして乗組員は操縦席に座る小さな男だけだろうと推察し男は言った。
「や、やるのか」
「俺はチョコボを片づける」
男は弓を構える。ニコロワが息を呑んで槍を握りしめた。キャリッジは街道横の茂みに潜む盗賊に気づかずただ一心不乱に街道を駆ける。
男は弓を引いた。真横を通り過ぎようとする瞬間、放った矢は木々の合間をすり抜けチョコボの胴をかすめた。
チョコボの甲高い鳴き声と操縦者の悲鳴が響いた。ニコロワが駆け出す。男も両手に何も持たず飛び出した。
胴体に結ばれた荷台を振り回すようにチョコボが暴れ、手綱を引いていた商人の格好のララフェルが転がり落ちた。荷台が転倒し中に入っていた貢ぎ物や凝らされた花が地面に飛び散る。男は宙に振り回される手綱をつかみ歯を食いしばり思い切り引っ張った。チョコボが暴れ身体が浮きそうになるが踏ん張りチョコボと目を合わせる。俺がおまえの主人だと口の中で呟きながらあやすように、脅すように手綱を引っ張っていると人馴れした稲穂のような色のチョコボは次第に落ち着いて足踏みをしながら男の周りをくるくると回った。胴につながれたままの荷台を外してやる。喧噪を知ってか知らずか歌い続ける精霊の声に耳を澄ませ心臓の高ぶりを押さえていると背後で怒鳴りあう声があがった。
「汚らしい盗賊め!」
振り向くとニコロワとララフェルの商人がもみ合っていた。ニコロワが持っていたはずの槍は地面に転がり、体格差をものともせず商人はニコロワの身体にしがみついてその身体を殴っている。殺さず傷つけず縛り上げようとしたのだろうがその躊躇いが荒ぶる商人に逆に襲いかかられてしまっていた。
「落ち着け!落ち着けって!」
「このっ!このぬすっとが!このわしを狙おうとは浅ましいやつめ!」
ララフェルは機敏に飛び上がるとニコロワの首にしがみ付き両腕を回して絞めた。藻掻くニコロワの顔が真っ赤に膨れ上がる。ララフェルの前腕を引きはがそうとするがはがせない。
「わしを侮るな!このぬすっとが!」
勝ち誇ったララフェルは男の姿をも目に入らぬのかニコロワの首を絞める。命すら奪われかねないニコロワとララフェルの様子は男には滑稽な物語のように見えた。
男はあたりを見回し、木の根にもたれかかるようにあった手頃な石を両腕で持ち上げた。それは重く、産婆が生まれたばかりの赤子を天に掲げるかのような振る舞いで頭の上にまで持ち上げると、いっさいためらうこともなく商人の後頭部に叩きつけた。
商人の頭蓋骨が砕け中に詰まった肉と血の柔らかな感触が石づたおにぬるく伝わった。喚き声が止み、脳漿と血が放射線状に飛び散った。男が石を離し地面に置くのと連動するようにララフェルの身体がずるりと弛緩しまるで女が愛した男にしなだれかかるような仕草で座り込んだニコロワにしなだれかかった。ほんの一瞬の出来事であった。精霊の歌すらも止まなかった。
男は石の血糊がついた面が空を向いているのを確認した。それは赤黒く濡れ雨の路面のように人を殺した石を光らせていた。ニコロワにしがみついたままの死体の首根を掴み、砕けた頭部を血糊と重ねるように寝かせた。後頭部に与えられた衝撃で目玉が飛び出、苦悶の顔は醜く歪み、半分に開いた口からはだらりと舌がこぼれる。グリダニアを目指していた魂は道半ばで星海へ導かれる。吹き出す血が地面を黒く染めていた。いましがた死んでしまった商人の喚き声はもうすでにどこにも反響を残してはいない。
男は指先についた血をあてどなくこすった。そうしないと商人の匂い立つような死の気配にからめ取られてしまうからだ。
「なに、を、」
ニコロワが座り込んでいた。半ば乱れた装束に飛び散った商人の血糊が付着し、落とされた仮面の下の顔はひどいものだった。血は染みとなり、容易く誤魔化せないだろうと男は考える。死体に負けないほど見開かれた瞳が男の姿をとらえていた。
「殺し、殺した、の、?」
どうして、と、震えた声が男に問いかける。
「殺されそうになっていたのはおまえだろうが」
「だって、で、でも」
「でも?」
「精霊の怒り、が」
男はやわらかく微笑んだ。
見開かれた瞳の中、あれほどまでに熱を帯びた尊敬は、混乱と動揺、恐怖の中には見当たらない。それは当然のことのようで、今し方起きたすべての罪、殺人という行いは、男自身でも驚くほどにその心中にとけ込み身体の一部となるようだ。ニコロワ、と、愛人を呼ぶような声音で男はその名を言った。ああニコロワ。グリダニアで生まれた子よ、愛されて生まれ、慈しまれ、そして森都に唾を吐き背を向けたむごい子よ。ララフェルの屍と座り込んだニコロワの周りに飛び散った血糊と祝宴の花が舞う。それはよくできた神話のように美しい。
「知りたかったんだろう」
どうした!という叫び声と共に数人の足音が響いた。ニコロワがびくりと身体を震わせるが木陰から姿を現したのは首領と数人の部下たちだった。
「チョコボの鳴き声が聞こえたんだ!おいおまえらとうとうやったの、か…」
喜色満面の笑みを浮かべて近づいてきたジェラールがララフェルの死体に目を留め息を呑んだ。獲物を求めてやってきた盗賊たちが次々に立ち止まり死体を見つめる。ふりむいた男は首領の老いた顔にうかぶ驚愕と顔を合わせた。
「お、おい!トーマ!ニコロワ!おまえらいったい何をやったんだ!」
叫ぶジェラールの横で、首領の鋭い視線が、キャリッジを、男を、ニコロワを、チョコボを、ララフェルの死体を行き交った。どやしつけるように迫り胸ぐらを掴んだジェラールにニコロワがひいと呻く。男はジェラールの手を掴み首を振った。
「縛りつけようとしたら抵抗したんです」
冷静な声に男たちが一斉にトーマを向く。
「それで、揉みあっているうちにこいつが頭から転げて石にぶつかった。大して強い力でもなかっんだが、一瞬のことだった」
そうだよな、とニコロワを向く。かたかたと震えるニコロワは返事をしない。
「そしたら、頭が砕けて死んでしまった」
「死んだのか」
男は頷いた。立ち尽くす盗賊たちを押しのけて首領が死体の元へひざまずく。
「殺したわけではないんだな」
「俺も、ニコロワも、殺そうとなんてしていない」
びくりとニコロワが身体を震わせた。死体の首に掌を沿わせ、その脈が完全に止まり屍がただのモノと化しているのを確認した首領が男を見上げる。
その瞳から目を逸らさず見据えて首を振る。
「…トーマの言ったことは本当か」
首領がニコロワに視線を移した。男も首領の肩越しにニコロワを見下ろす。
「お、俺、おれ、は、それは、」
「首領、ニコロワは混乱している」
男はニコロワの言葉を遮った。
「はじめて死体を見たから当然だ。だが、ニコロワのせいじゃない。この商人が暴れて、おとなしくしなかったのが悪いんだ」
そうか、と首領が沈黙する。立ち尽くす男たちの沈黙に、チョコボの脚が地面を削るざりざりとした音だけが響く。精霊たちはいつものように歌っている。
やがて「どちらにせよ、このままではいけない」と重々しく首領は告げる。荷台の荷物を下ろすように部下たちに命じると男を振り返った。
「トーマ、キャリッジに乗っていたのはこの男だけか?」
「ええ」
「そうか」
それから首領は驚くほど手早く死体の処理を命じた。「事故死なんてよくあるからな」と落ち着きを取り戻したジェラールが言い訳のようにそう呟きながらつぶれた頭を持ち、男は足を持って、ララフェルを担ぎ上げた。
荷台から積み荷が降ろされ幻術皇に捧げられるはずだった宝物は、それをグリダニアに持ち込もうとした屍とともにシェーダーの隠れ家へと運ばれる。人に馴れたチョコボもまた高値で売れるので連れて帰れる。ニコロワだけが呆然と座り込んでいたが、盗賊たちにどやされてのろのろと荷台の荷物を持った。
死体を、血糊のついた石と共にねぐらの洞窟の奥深くへと投げ込んだ。どさりと遠くに肉塊の落ちる音が響くのを、男は耳を傾けて聞いた。複雑に入り組んだ洞窟ならば、死体は二度と見つかることはないのだろう。なんと容易いことなのだろう、と男は思う。精霊へのおそれよりも、禁忌よりもすばやく罪は犯されたのだ。それが罪かと判じる間もないほどに。

▽▽▽

荷台には盗賊好みの悪趣味な宝石がやまほど積まれていたので、事情を知らない盗賊たちと、死を隠蔽し平然と振る舞う盗賊たちはみな歓声をあげた。功労者はニコロワであるとジェラールが讃えたので、無能の若者は一夜にして皆に認められる盗賊となった。男もまた、ニコロワがいなければこの襲撃は上手くはいかなかっただろう、とニコロワを持ち上げた。
ニコロワには特別に良い酒が振舞われた。
はじめは俯いて、宝石の輝きにも反応しなかったニコロワは、しかし投げかけられる賞賛の言葉を耳にし、強い酒に口を付けると、自分の行いは正しかったのだと内心で納得できたのか笑顔を見せた。盃は男にも回ってきたが、すべてニコロワがおさめた成果だと言って断り、その分をニコロワに差し出した。
「俺は盗賊だ!シェーダーの血統だ!」と叫んだニコロワが杯を煽ると男たちは一斉にはやしたてた。首領もニコロワに対し満足げなまなざしを向けているのを見て、首領も人を殺したことがある、と、男はそう思った。不可抗力だと内心で納得させ、精霊への恐怖を飲み込み、幻術皇に逆らい、もはや存在しない亡国の末裔であると嘯いて生きてきた。首領だけではない。きっとこの盗賊たちの多くはそうなのだ。そしてニコロワは自らを騙す。目の前で死んだララフェルはやむを得ぬ死であった。そして森の掟には背くことなく盗賊になったのだ。
あとは女を抱くだけだなと野次が飛び、顔を真っ赤にしてニコロワが首を振る。良い夜だと男もまた微笑んで唇を酒でわずかに湿らせた。宴もたけなわな頃首領が立ち上がる。
「季節が変わったら宝石を売りに行く。おまえたち、この冬は豆以外も食えるぞ」
結界を越えて響くのではないかと思うほどの歓声があがった。

死体の夢を見た。死体があった。見下ろすと、それは母親の顔になり、父親の顔になり、そして商人の顔になる。
いつだって、殺そうとして殺した訳ではなかった。言葉にできるほどの明瞭な感情があったわけでもなかった。ただ、殺してしまったほうが良いのだと直感した。それが最善だった。深い意味など考えたこともなかった。ニコロワほどの憎しみも、首領や盗賊たちほどの、フォレスターへの羨望もなかった。
腕に触れられるやわらかな気配に眼を開くと、とこしえに横たわる暗闇に人の気配があった。火を消せば真の暗闇へと落ちる地下で、女が手に蝋燭を持っていた。男ははじめ、それを母の写し見、亡霊であると夢うつつに祈り、いいや、亡霊ではない、生きている女であると覚醒と共に気づく。月をともした瞳のなかで蝋燭の炎が燃えている。
「トーマ」
飼い猫の甘えた鳴き声のようにミコッテの女が囁いた。時刻は何時か。宴の気配はすでに遠く、男はあのニコロワを主役とした宴に女の姿が見えなかったのだとふと思い返した。
「トーマ、ねえ、あたしをここから連れ出して」
小声で、けれどもその声には切迫したものを感じ取り男は身体を起こした。片手に蝋燭を、もう片手で男の胸に手を這わせ女が鼻先をすり付けんばかりに顔を寄せた。頬の腫れはもうすっかり引いていたがその目は満月のように見開かれまるで眼球に男を閉じこめてしまおうというようだ。
「チョコボを連れて帰ってきたでしょ?あれに乗ったらあいつらも追いつけない。国境まで行って、それから乗り捨てるの」
「何の話をしている」
男のかさついた声の問いかけも反応のひとつと嬉しいのか唇に唇を押し当てて舌先でおねがいと囁く。蝋燭を地面に置きもう片手で服のポケットを探る。震える肩が小さく、土色の肌と違いほのかに光り輝くようでいる。
「ねえほらあいつから宝石をひとつくすねてきたんだ。これで、これを使って遠いところへ行くのよ」
伸びた手が男の腕に冷たいものを押し当てた。女の小さくあまりにもやわらかい掌が死体ののように冷えている。
「ねえトーマ、あんたもこの洞窟から出たいでしょ?こんな森から出ていきたいでしょう!今がチャンスなの、もうこれしか、今日しかないの、ねえ、行こう?行こうよトーマ」
いたるところが柔らかい女の鋭い言葉が闇を切り裂く。男はいましがた見た夢に出てきた死体たちと、今目の前にいる女のその体温が対して違わないことを、まだ長い夢を見ているようだと思い、詰め寄る身体をそっと押し返した。
拒まれたことに気づいた女が息を呑む。
「どうして?どうして、あたしがいやなの?」
トーマ、トーマ、と泣いたような声音で呼びかけてくる。それが自分の名であることを不思議に思った。
「ねえトーマ、本当に、ずっとここにいる気なの?こんなくそったれなところで、くだらない盗賊ごっこをやってくつもりなの?今日の、見たでしょ?自分たちが正しいとか何とか言ったって、何だって良いんだ、結局自分に都合の良いようにしか生きてない。妄想なのよ」
「黙れ」
もう聞きたくなかった。だから男は先ほどよりも強く女の身体を押した。蝋燭の炎が揺らめく。
「あ、あんたが、あんたがシェーダーじゃないって言うわよ!」
「好きにしろ」
懇願も脅しもまったく効き目がないと悟った女はたじろいで、しかしまるで今生の別れを惜しむように切々と男にすがりついた。
「ねえお願い、待ってるから、外で待ってるから」
とせっぱ詰まったように囁く。微動だにしない男を泣きそうに歪んだ顔で見下ろし、そうして立ち上がり蝋燭の炎と共に足早に去っていく。あとは瞼を閉じているのか開いているのか分からぬ暗闇が男を包み込む。
男は横たわり、両のまぶたを幕引きのように下ろす。心の奥底に焼き付いた死体に出会うように夢へ溺れ、精霊の歌声がその身体を包み込み、汚れた両腕をひとならざるまなざしで気まぐれに許すのだと悟った。
ならば、許されない日もかならず訪れるのだろう。

▽▽▽

女の姿が見えなくなっていた。
そうしていなくなってしまえばあのほのかに光るような白い肌も男たちに比べてあまりに小さな矮躯も幻のように思え、エオルゼア十二神が一柱、彼女の郷里が信仰する月神の化身だったのではないかと男の頭をよぎる。女の行方について、誰も何も言わなかった。男も探そうとはしなかった。
首領は自分の部屋に引きこもっている。
盗賊たちは荒れ果てた祝宴の後かたづけをしているようだ。宴のあとのどこか白けた重たい空気にのろのろと身体を動かし囁き合う。何か役目はないかと見回し、男は自室に戻って寝床の掃除をする。肌がひやりと凍えるのは何もここが古代の遺跡だからだけではなく、この先訪れる黒衣森の冬をきざしとして感じるからなのだ。
昨日女が持ち込んだ蝋燭の溶けた蝋が地面に点々と落ち固まっているので、やはりあれは夢ではなかったし彼女は神でもないのだと男は思う。ふと耳を澄ませれば精霊の歌はいつも通り男の半分の血を揺らす。それが何でもない特別でもない一日の合図であった。
「トーマ」
振り向くと小さな出口を塞ぐようにニコロワが立っていた。
「トーマ、首領が呼んでる」
仮面をつけた表情は伺い知れないが平然とした言葉に「分かった」と頷いて男はニコロワのあとをついていく。こっち、と、登る道を指し示され手に持つ蝋燭で逆光になった背中を追いかける。どこかで滴り落ちる水音が聞こえる。枝分かれしたいくつかの道を登り盗賊が集会に使う広間を目指しているのだと悟る。
「トーマ、昨日の夜、先に寝てしまったよな」
ぽつりとニコロワが問いかけた。
「だから知らないよな。あのな、明け方におかしらが俺に言ってくれたんだ。俺の顔にもそのうち刺青を彫ってやるって。そしたらさ、一人前のシェーダーになれる。憧れがみんな手に入る。おかしらは俺の肩を抱いて言ってくれたよ。立派になれる、恐れることはない、って」
広間の入り口で足を止めたニコロワが振り向いた。洞窟の闇は深いというのに背後に立つ男をどこか眩しげに見上げる。25歳を自称する青年の顔が今日ばかりは正しくその歳に、否もっと老け込んですら見える。
「トーマのおかげだよ。トーマのおかげで、みんなうまくいった」
ありがとう、と、ニコロワが言い、男がその言葉の意味を考える間もなく背中に強い衝撃を受けた。絶息に崩れ落ちる視界の端に飛び退くことも構えることもしないニコロワの両足が映る。受け身をとれず胸から転げた身体に突然沸き起こった人の気配が一斉に襲いかかった。だめ押しとばかりに背中を蹴られ胃液を吐く。複数の手が伸び男の首根や腕や髪を広間へと引きずった。
怒号が男を詰った。火の燃える広間で男は盗賊がみな揃い自分を見下ろしているのを悟り、起こしかけた身体を蹴られ踏みつけられる。首領がいた。ニコロワもいた。複数の暴力が男をなぶり身体を丸め頭を守ろうとする両手両足を押さえ込みまた殴る。熱に浮かされたような熱狂がすべて男へと注がれていた。ぐらつく視界の端に薄汚れたゴミ布が落ちているのをとらえる。否その布はよく見れば裸のミコッテの女だ。生きているかはわからないがぐったりと弛緩した身体はさんざんなぶられたあとでシェーダーの肌の色と変わらぬほど汚れていた。
「トーマ」
一方的な暴力が止み男は痛みの中で己の名を呼ぶ首領の声を聞き眼を開く。
「恩を仇で返したな」
首領がぎらぎらと光る眼で男を見下ろしていた。首領だけではない、共に生きた盗賊たちが今や畏れや不安や憎しみ、あらゆる負の感情が入り混じった目が男を見下していた。
首領がポケットから何かを取り出しこちらに投げた。そのまばゆく光る宝石は男を立て男の顔のそばに落ちる。夢うつつの真夜中に女が震える手で見せてきた輝きとまったく同じであると男は悟る。男を待ち惚け、一人で夜の森を走る勇気も持てず待っていたのか、それとも乗り慣れないチョコボの手綱を持とうとしたのか、盗賊たちに捕らえられた女は男について何と言ったのだろうか。今やボロ布のようになってしまった女に問いただすことは叶わず男は首領を見上げる。「おまえの為になんでもしてやったのに」首領が男の髪を掴んだ。反射的に身を捩りかけるが頬を殴られ息が詰まる。
「あの商人を殺したのもおまえだな?」
違うとも、そうだとも言う前に持ち上げられた頭を地面に叩きつけられる。ぐわんぐわんと鳴る耳鳴りの向こうでニコロワが喚いている。
「あいつがやったんだ!あいつが全部!あいつが、トーマが商人を殺したんだ!」
かつては背中に隠れるしかできなかった青年の指が裁判官のように男の罪を告発する。取り囲む者たちからもあらゆる汚い罵り文句が男に向かって吐きかけられる。
「何か釈明はあるか?トーマ」
もう一度髪を掴みあげ首領が問う。
これは裁判ではなく一方的なリンチであると男は思う。であれば何を言ったところで今更聞き入れられはしない。痛みに呆けた頭に釈明の言葉が浮かんでは消えていく。間近で見る首領ははじめて出会った時に感じた偉大な亡国の末裔としての威厳はいつの日か失われ、顔の至るところに皺は深く刻まれ、枯れ枝のように老いているように見えた。首領だけではない、集った盗賊たちはみなくすんだ肌をし、光の下で生きる者たちよりも何倍にも老けて見えた。恐怖や焦りは感じない。ただそうして露わになったシェーダーたちの姿が男には新鮮だった。
「俺の女に手を出して、商人を殺して、なんのつもりだ。もしも理由があるなら言え。今なら聞いてやる」
慈悲深い首領の言葉を遮るように声をあげて笑う。
乾いた哄笑に、盗賊たちの怒りが、困惑へ変わる。
首領が口をつぐんで男を見下ろしていた。

馬鹿なやつら。
俺がどこから来たのかも知らないくせに。

「したいことを、したいようにしただけだ」
男は微笑みを浮かべそう囁いた。
「お前たちもそうすればいい」
頬を殴られ舌を噛む。苦い血の味が広がった。吐き出した唾に鮮血が混じる。首領が繰り返し男を殴る。盗賊たちが最早聞き取れない怒号を喚く。殴られるたびに頭を揺さぶられ眦から涙がにじむ。腹を蹴り飛ばされ骨の折れる鈍い音が体内できしむ。腕を踏まれ腕が折れる。
顎を掴まれ天井を向かされる。首領が小刀を持っていた。刺青の彫られた右頬を、眼球ごと貫き鋭い刃が深く、骨に達するほど切り裂いた。
激痛に絶叫する。
血が噴き出し右の視界が真っ赤に染まる。
「川に投げ捨てろ。生きたまま魚に食わせてやれ」
首領が吐き捨て背を向ける。折れた腕を引っ張られ、身体を引きずられていく。ボロ布の女、名の覚えていない盗賊たち、己を罵るニコロワの姿が左の視界に映り遠ざかる。
薄れゆく頭で、それでも殺せないのか、と、思った。

▽▽▽

それは使用人用の狭く汚い地下室だった。それはまばゆく光る豪奢なシャンデリアだった。それは白く滑りの良いシーツだった。それは吹き荒ぶ冬の嵐だった。それは雲海から響くドラゴンの鳴き声だった。
あるいは、そう、あるいは。カーラインカフェの賑わいだった。窟に響く道士の祝詞だった。母が少女であった頃に歩んだと想像する往来であった。

精霊の歌が聞こえる。男は過去を手繰るいとおしい夢から静かに覚醒する。
耳のそばを水が流れていた。全身が石になったように重く、熱を持っているが水に浸かった背中はひどく冷たい。黒衣森のどこかにいるのだとは分かったが、どこかは分からない。川に投げ込まれ、流された。身体の隅々まで自分のものではないようだ。ただ、痛みと寒さが鈍く心臓をはい登る。視界の半分は潰れて暗闇だ。右の瞼を動かそうとしてもそれはまったく動かない。もう半分の視界が、空に伸びる幹と、数え切れないほどの木の葉と、遠い遠い空を映していた。瞬きすらも全身がしびれるように痛む。
背中にごつごつした岩が刺さっている。
晴れやかな空に点々と綿が浮かんでいた。水でにじんだ半分の視界の中で、手足の生えた綿は不思議に踊る。死にかけた人間が川の浅瀬で引っかかり、今まさに冷たい水に血を流しているのも気にせず、楽しげに舞っている。
見つめていると、段々、腹立たしくなった。

おまえたちがうらやましい。
どうして俺は、そうは生きられなかったのだ。

身体から血が、命がグリダニアの水によって流れていく。流れた血は森の一部となるのだからいっそそれでも良いのだろう。重い瞼がゆっくりと閉ざされかけた時、人の叫び声が聞こえた。複数人の足音が近づいてくる。
「どうした?」
「人だ」
「おい、しっかりしろ!」
複数の手が伸びて、川底から男の身体を持ち上げた。男が目を開くと綿が一斉に飛び去ってゆき、風景を覆うように複数の顔が見える。髭を生やしたヒューランの男たち、仮面はつけていない。クォーリーミルの猟師だ。皆、老いている。彼らは男の身体を土の上に横たえた。
「意識があるぞ!」
「ひどい怪我だ」
「おいあんた、分かるか、何か話せるか?」
「あ、」
男は口を開く。喉を使って息を吸う。それだけで身体がばらばらにされそうに痛む。
「た」
喉から、震え声を発する。
「たす、けて、ください」
耳をすませる猟師に、男は希う。
「わたしはグリダニアの、商人、です。盗賊に、襲われ、ました。助けてください、たすけて、ください」
猟師たちが顔を見合わせた。きしむ頭を必死に持ち上げ、折れた腕を伸ばそうとする。
「わ、たしは、に、荷物を、奪われ、て、」
猟師のひとりが起きあがろうとする身体を押さえつけて頭を振う。特に老いた猟師だ。彼らの中で最も立派な装備を纏っていると男は悟り、なおもすがるように「おねがいします」と繰り返す。
「分かった、分かったからもう、喋るな」
腰に下げた袋から布を取り出し男の血を拭う。特に老いた猟師の動きに、他の猟師たちが制止しようとする。
「おい、大丈夫か?
「嘘を吐いているかもしれないぞ」
「盗賊の仲間割れかも」
「黙れ!これが嘘を吐いている人の顔に見えるか?死にかけているんだぞ!」
老人の叱責に猟師たちが首をすくめる。老いた猟師がくるりと振り返ると男に向かって微笑みかける。
「ああ、大丈夫だ。もう大丈夫だ。安心しろ。近くにわしらの集落がある。あの洞窟に住む盗賊たちにやられたんだろう。カヌエ様がおっしゃられていたやつらだ。間違いない」
身体をふわりと宙に浮かぶ。猟師たちが男を抱き上げ運ばれていく。板の張られた荷台に乗せられる。チョコボの鳴き声で、キャリッジに乗せられたのだと気づく。ごとごとと、ゆっくりキャリッジが動き出す。すっかり濡れて血にまみれた服を脱がされる。片方の視界に映る老人が男の手当をしながらいつくしむような顔を男に向ける。
「もう心配することはない。昨日グリダニアへ行ったら、鬼哭隊が盗賊たちのねぐらを強襲すると言っていた。洞穴の中に煙を投げ込んで、蜂を払うようにいぶしてしまうんだ。たまらず出てきた盗賊を、みんな殺してしまうんだとよ」
猟師の言葉は男の耳にはっきりと届いた。
ああ、それでは。
「精霊はすべてを殺せと言ったそうだ。だから大丈夫、大丈夫だとも」

それでは、皆死ぬだろう。
首領も、女も、ニコロワも、あの、シェーダーたちも。

塞がれた右眼の暗闇が、まるで行き場のない洞窟の風景に似ている。その暗闇で生きた盗賊たちが、栄光の過去を追想しながら土壁の中に消えていく。ゲルモラの栄光は既に滅んだ国と同じ色となり、ふたたび光を発することはない。
開かれた左眼に映る黒衣森はいつものような穏やかさで人を裁くことを選ぶ。目にしたことのない幻術皇の視線を思う。けれども彼女は吹き荒ぶ雪を知らない、ドラゴンの咆哮を知らない、たった一人生き延びた半分の血を知らない。それが幸運なことなのか、男には分からない。
「あんた、名前は?言えるかい」
ふと、問いかけられた。黙りこくった男が死んでしまったのかと案じるような声だった。
真なる名と、今までに名乗った名がいくつも通り過ぎた。それらはみな些細な言葉だった。はじまりの名も、昨日まで名乗っていた名も、森や山、神々の在り方から見ればすべてどうでもよかった。
だから、男はかさついた唇を開き、最後の吐息のような声で名乗った。
「ニコロワ」
明瞭な言葉に猟師の老人がほっとしたように微笑んだ。
「そうか、良い名だな」

いまはただ、ひどく眠たかった。

男は眼を閉じる。精霊の歌、キャリッジの車輪の音、己を手当する猟師の腕、濡れた身体を撫でる風が男の身体を包み込む。ふたつの血はいまもなお男の胎内を駆け巡り、男を生かすことを選ぶ。イシュガルドを思い、グリダニアを思った。そうしてようやく精霊の歌声も聞こえぬほどの深い眠りへといざなわれる。眠っている間にトーマという人間は洞窟の中で死んで行く。次に目覚めた頃にはまったく違う名を名乗り、違った人生を語る。男にとっては、それは何よりも容易く、まったくおかしなことでなかった。