青年の記憶の中で、その男は高地の太陽に灼かれぬ白い肌を淡く柔らかな黄金のような茶色の髪に翳らせ、何も見えていないような目でただひとつを凝視している、そんな人間だった。イシュガルドの病的な貴族趣味とも違う、ただ磁気の人形が動いているようなその不気味、異質、それからあこがれ、鋭い葉についたカンパニュラのようにうつむく横顔を、青年はいつでも思い出すことができた。
その横顔は、今や青年の目の前で手が届くままの距離を保ち、しかし、やはり青年のことなど目もくれず、机に積まれた分厚い書物を凝視して、時折狂気のようなはやさで何かを書きつけるのみである。その傍らには、魔方陣の描かれた無数の紙束や魔杖の設計図などが所狭しと散乱して、つまり青年に理解できるのは目の前の男の視界に一度たりとも自分が映っていないことと、その光景が一週間前と何も変わっていないことだった。
ザナラーンの陽射しを憎しとばかりに家の窓という窓を分厚い布で覆った部屋は薄暗く、昼間だというのにほのかに照るランタンの光が男の横顔を濡らしている。青年はまたがった椅子の背もたれに腕を預けて、両親の世間話に飽いた子供のようにからだを揺らしながら、流れ落ちる亜麻色の向こうに覗く顔をじっと見た。繰り返しを七日も経るとその白い細面に無精髭がうすらと現れ始める。それはそれで青年は気に入っていたが、すなわちこの男が不精をしていることの証左である。
「せんせ」
「なに」
返事が来た。星の二十六から数えて七日、初めて返事が来た。ここぞとばかりに青年は口だけを動かして問う。
「いつから運動してない? 今日の朝食は食べた? いつから寝てないの? いつから湯浴みしてない?」
時間の止まったような部屋の中にいっそう重い沈黙が下りた。青年は男をじっと見て、目を逸らさずにいる。すると彼は大きなブリムの下でわずかに——とはいえ青年には見慣れぬ大きな表情だった——目を見開き、がばと突然体に芯を入れたかと思うと、あろうことか居心地の悪そうに、重々しいローブをカーテンにくるまる子供のように引き寄せ、すんと鼻をうずめるしぐさを取った。
うそだろう、と青年は思った。まさか俺の言葉を気にしたのかという戸惑い、まさか自分のにおいを確かめているのかという愉快が青年を襲い、そして彼はこらえきれず盛大に吹き出した。
「うそ、先生。においなんてしてないよ」そんないじらしいことはやめてよ。青年は内心でそう続けた。すると男は先ほどから常にはない機敏さで動いていることを当たり前のようにして、ぱっと顔をあげ、それからたどたどしく視線を伏せたり頭を振ったりした。
「当たり前だろ……浄化の呪文はかけている。衛生に、問題はない。はず」
だってこの呪文はカルテノーでも使えたんだ。ばさりと投げ捨てるようにペタソスを机の上に置き、在りし戦場の名前を呟きながら立ち上がってどこかそわそわとした調子で歩き始めた男の背を目で追う。足取りは浴室の方へ向かっているようだった。
「えっ。先生って白魔法も使えたんですか?」
と、青年も立ち上がって訊く。
「うるさい。うるさい……ぼくを不潔で無精の年寄りだと思ってるんだろ。どうせ。お前……」
とりつく島もない。そもそも先生は自分の寿命を知っているのか、と青年は内心で首を捻った。本当の年寄りに怒られるよ、とは言わなかった。
しかし、浄化というのはじっさい、ほんとうだと思った。日ごと湯浴みをするなんて贅沢ごとを、雪国の屋敷にいた頃ならばいざ知らず、この土地でそうそう賄えるはずもないのだ。そのくせ彼の肌はいつまでも白くて、髪はつむぎたての絹糸のようで、まるで彼の周りだけ時間が止まっているようだったから。
「あれ?」と青年はふいな大声をだした。びくと跳ねた後ろ姿を気にせず、追いかけてたっぷりとした袖に包まれた細い腕を掴んだ。「先生、俺とするときもその呪文かけてる?」
「馬鹿。うぬぼれるな」
べつに自惚れてはいない。青年は怪訝になって黙りこんだ。
「おまえはいつもいきなりで、僕の意見を聞くフリだけ。だから僕は、なにも、できな……」
後ろ姿が捲し立てる早口は、一向に相槌が打たれないのに気づいて勢いをなくし、それきりよりどころを失ったように口を閉ざした。
「そう。先生」と、青年は俯いてしまった男の真っ赤に染まる耳の先を坐視し、どこか悔しげに肩を怒らせて微動だにしなくなってしまった体に腕を回して、ごく優しく、子供に言い聞かせるように口寄せてゆっくりと言った。「でもそろそろ湯あみはしようか? からだに悪いよ。また俺が洗ってあげるから」
「い、いらない。ひとりで……」
おそるおそる抱きしめるとローブの下に隠された花車の肩がわずかにこわばる。ふっと詰めた息が腕の中を通り抜けた。鏡のようだと青年は思った。痩せた胸板を片手で探ると竦んだからだが怯え、しかしそのことを必死に隠すようにしてつよく固まった。鼓動以外の何も隠せやしない、たがいのおそれに響きあうようなふたつの哀れっぽさが青年の心に降りかかってきた。さらとした長い髪に顔をうずめて、耳の裏から首の付け根に舌を伸ばすと、否と言うとこはないが逃れるように身をかがめる姿が、うなだれたしろい植物のように見えた。ゆるさず、引き寄せてついに振り向かせ、唇を食むと濃い青色の目に映るものが赤いひとみだけになる。どろりと融解しかけたそこにはやがて消えそうなマハの知性が光っていた。
心臓を押さえていた手をあばらから腹へ下し、それから鼠蹊を撫でて服の上から恥部をまさぐると喉のうちでくぐもった悲鳴が上がる。
「ゃ、め、……はなせ……」
「先生、やっぱりにおいするかも?」
「……え、あ……」
鼻を埋めた白い首筋にかあっと血が上る。所在のない両手が逃れたいのか突き放したいのか、あてどなく宙を掻き、結局は娘のように両腕をかざして赤い顔をかばうに着地した。そんなの意味がないのに。
「俺にこんなことさせてくれてる時の先生、すごくいいにおい」
自分のものよりも少し垂れた耳をかじる。すると、いよいよ何処をかばって隠せばいいのか、わからなくなったに違いない、彼がやっとの思いで発した「……犬……」というつぶやきは、言い得て妙だと、青年は唇だけで笑った。
口内を荒らされ、空気を求めて身を捩るからだを、死にかけの獲物に逃げられないように押さえつけるみたいにして腕に留めておきながら、だんだんと濁り力なく滲んでいく瞳をのぞきのんだ。はっはっと息が上がる音が耳の中に響く。犬というよりは血の匂いを嗅いだ狼にでもなったような気分だった。
傍にあった肘掛け付きの椅子が目に入った。その上に積まれた本を落として、惚けている男を代わりに載せる。
口づけを落としながら下衣を丁寧にはぎ取り、気を取られている男の脚を肘掛けに引っかけるとぼんやりしていた顔がとつぜん羞恥の色に染まった。からだの正常な動作を忘れて、こんなに簡単な檻から出ることもできず身じろぎを繰り返す様子をしばらく見下ろしていたが、青年はやがてゆっくりと膝頭を両手のひらでそっと包み押し広げた。すべてが晒された色は白い。そのなかでひとつだけ赤くふくれた穴が震えている。
「いやだ、ゅあ、湯あみ、するから、させて……」
とおぼつかない白い手が青年の胸を押し返す。
「うん」
と、青年は上の空で返事をした。
男の研究道具である植物油の入った小瓶を机の上から取る。手指に垂らし、すり合わせるとぬっとりとした糸を引いた。不透明なそれに濡れた人差し指をふくれた穴に突き込むと男の体が揺れた。
「はっ…あ、あっ…あっ……!」
すぐに中指も差し込んで前後する。簡単に開く。女陰のような穴。この人がこんなものを持っているなんて、今でもとうてい信じられないのだ。油が飛び散るくらい音を立てて抜き差しすると、懸命に呼吸を小刻みに震わせて耐えるさまがいじらしい。
「やめて、レオ……言うこと、聞く、から……」
「……うん」
ごめんね先生と何度も口にした許しを請い、押し返す手を無視して、青年はやわらかい孔を貫いた。
悲鳴が上がり、青年は即座に唇をねぶりそれを呑み込んだ。ボロボロと押し出された涙を親指でかき消すように磨き、何度も穿つ。青年の胸元をくしゃりとつかみ、目を閉じて天に仰のく白い喉にランタンの光が鋭く差した。
もう先生は俺の腕にしがみつくことしかできない。唇をふさぐ合間に、レオ、レオ、とか細い懇願が聞こえる。こわれたように名を呼ぶ心地よい声の人形に血を注いで台無しにしてしまったのは誰なのかと、答えを隠した問いだけがぐるぐると巡る。ああ、と青年はすこしばかり驕慢のさみしさをおぼえる。たった数刻前の横顔さえ今はもう遠い。今がいったい白日なのか宵なのか、薄暗いへやの中ではわかるはずもなく、いっそアルジクの御手によって時の一切がとめられてしまっていればいいと思う。今男が見ているのは己の体内でのたうつ快楽のみであるだろうか。
黒いローブをたくしあげた下に現れる白い腹が、突くたびにはげしく波打っていた。捲れた袖からちらと見える腕に彫られた黒い紋様には、そっと元のように袖をかぶせてやる。男はそのことに何も言わなかった。ただ二人分の息の合間にかすかな抗議めいた声を漏らすだけで、それもやがて甘い嘆きに変わった。
「ぁーっ、ぁ…う、うぁ、ぁ……」
「先生、せんせ、」
赤ん坊のようにがむしゃらにしがみつき、体内をされるがままにかき混ぜられて叫んでいる姿が、青年が思う男のいちばん美しい姿からはかけ離れているのを、もとどおりにしようと願ったのか、青年は衝動によって男のからだを壊しながらふたたび作り直そうとでもするみたいに口寄せた。舌の上で弱々しい泣き声が上がる。やがて、細い四肢がしばらく痙攣したかと思うと、すべてを諦めた小動物のようにくたりとする。結い紐のほつれた髪が椅子の背からとろりと流れ落ちて、臥したまつ毛の籠の向こうでジルコンの石が弾けた。ような気がした。
「レ、オ……」
「……うん、何……?」
宝石の目からとうめいがこぼれ出てきた。それを舌で何度でも掬った。男はとうに果てていた。青年は動きをゆるやかにしながら、留め具の落ちた長い髪を梳きながら言葉の続きを待った。
「おまえ、何が、……なに、が……」
さっきまで幼子のように震いついていた手が、青年の目の前に伸びた。青年は、はっとして身をひいた。その手が青年の頬や頭を撫でようとしているかのように思えたのだった。それもひどく親密そうに。
砕けた瞳が無数の光をたたえてレオナールの眼底を照らす。さっきまでのろまに不精をしていたとは思えない目、男に抱かれて泣きわめいていたとは思えぬきらめき、そういったものが、いやに静かに、冷たく青年を見つめ上げてくる。青年はほのかに笑んで、震えもしない色白の手を日に焼けた手のひらにそっと包み、しかして強く押し戻した。
「――なにもないよ、先生」
「……、ひ、あっ、…あ…!」
そうして、青年は男の首筋に額をすりつけるようにして深く体内に押し入ると最奥をいたぶり、吐精した。もう互いの顔は見えるはずもなかった。ジルコンの眼はどうなっただろうか?たった今もかがやいているのだろうか。が、もう男の手が伸びてくる気配もなく、今度こそ亡骸のようなからだが熱く濡れているだけだった。
曇天の路地裏のような天井の高いへやの、小さな椅子の上にうずくまっていると、しばらくして、黒いローブが不意にざわと動く。
「……よごれた、お前のせいで……」
「怒んないでよ。洗ってあげるって言ってるのに」
「僕はいらないって、言ってる……」
気丈な足取りが青年を押し退けて椅子から降りようとするのを構わず掬いあげて、抱きかかえた。男は大きくため息をついたが、自分を抱く青年の太い腕に挟まれた長い髪を引っ張り出すだけで、何も言わなかった。遠くを見ているような、それでいて地面を見つめているような双眸が見慣れた色になって青年を見上げる。それきり、興味すらなくした素振りで浴室の方を眺める姿に青年は思わず肩を揺らした。
青年にも抱き上げられるような、同族にしては小柄なからだが、胎内に残された倦みがひどく重いものであるかのように全てを分け与えてくる、ぐったりとした熱に沈鬱な喜びを得て、青年は路地をあとにした。