星は施しを与えたがった

 結露を含んだ窓越しに見える人々の姿は朽ち果てた砦に出るという亡者のようだった。
 灰色の雲に覆われた大空に星の輝きを見つけることは叶いそうにもない。イシュガルドの高い塔に絡みつく北風は民の身体を否応なく凍えさせていたが、シャティヨン家の屋敷は隅々まで温かく、それこそが権威ある騎士の証とでも言うように上層の一角に重々しく聳え立っている。
 シャティヨンの直系の次男であるところの小さなこどもは窓に張り付いて窓の外を見下ろしている。ガラス越しに外気の冷たさがひやりと小さな手のひらを凍えさせていたが、彼は一向にかまわなかった。
 通りに面した厳めしい門は今日も閉ざされているが、いまはそこに近衛兵たちが数人集まっているのが見えた。そして、雪に霞む道の先から、粗末な装束を着た下層の人々が表れては過ぎ去っていく姿も。近衛兵たちの赤い騎士の鎧と下層の人々の灰にも土の色にも似た粗末な装束が近づいては離れていく。貧民の手には近衛兵からもらったささやかな菓子が恭しく握られているはずだった。教会が先導するような慈善活動は、今日という日にさまざまな聖堂や騎士、兵舎の前で行われている。なぜなら今日は星芒祭だった。
 月に寄り添う星のように輝く少年の瞳は貧民たちの顔や形を夢中になって見つめている。貧民の姿が物珍しいのではない、献身を働く近衛兵たちが好ましいのではない、ただ来年ようやく年齢が二桁になろうかというちいさな次男坊は、人々の深く被ったフードの隙間から白茶の髪がこぼれはしないかと見守っているのだ。だから背後から声をかけられるまで、兄がそこに立っていることすら気づきはしなかった。
「レオナール」
「わぁ!」
 飛び上がり振り向くと眉を吊り上げた兄が立っていた。腰に模擬用の剣を下げた長男、この家の跡取りであるところの青年は冷ややかな目で弟を見下ろしていた。
「兄上」
「ここにいたのか。もうすぐ鍛錬の時間だぞ」
 弟に比べれば一回り、二回りも大きな背丈の長男は、自身に比べて鍛錬や勉強を怠ってばかりの弟を心底厭うている。今日もそうして鍛錬所に連れて行こうとレオナールのまだ幼い柔らかな腕をつかみかけて、ふと、窓の外を見た。
「何をしている?」
「あの…」
「ああ、星芒祭か」
 拘束しようとした手からそろりと離れ、レオナールは頷いた。兄の瞳は近衛兵や、下層の人々へと移ろい、やがて形の良い唇がゆがめられて舌打ちをする。
「汚らしい」
 明らかな侮蔑を含んだ言葉にレオナールは身を竦ませた。
「嫌な日だ、街に物乞いが溢れ施しが欲しい貧民が媚びへつらう。あいつらも叩ききってやればいいものを」
 あいつら、とは、近衛兵たちのことを指すのだ。主君に見下されているとも知らず、彼らは菓子を振舞っている。
 星芒祭。
 それは、山都の凍える日に生まれた優しい物語だ。
 身寄りをなくした戦災孤児を、イシュガルドの近衛兵たちが兵舎に招き入れてあたたかな暖炉にあたらせた。そんなささやかな物語。
 けれどもその優しさは今や、騎士や正教会の権威づけに使われていた。その勇気ある兵士たちに倣って、教会や一部の兵舎では特に、凍える季節には菓子やスープを振舞う。そのすべてがすべて、下心があって行われているわけではないだろう。近衛兵には貴族出身ではない者も多いから、貧しい人々へ施しを与えることを純粋な心根で行える。けれども伝統的な価値観を持つ騎士は違う。優しい物語を利用しながらも、心底では貧民を軽蔑している。
「俺たちの腕は剣を握るためにあるんだ、女神ハルオーネの守護は外敵と、竜と戦うためにある、施すためじゃないっ!」
 シャティヨンの長子はまさしく騎士道の誉れのような精神であったから、身体を縮こまらせた弟を前にそう猛々しく言い切ると、今度こそレオナールの手首を掴んで引っ張った。
「ほら行くぞ。父上がお待ちだ」
「あ…」
 いやいや引きずられレオナールは歩き出す。ちらりと振り返る窓の外では、変わらず人々が蠢いていた。

 兄上、おれも行ってはいけませんか。
 兄上、人々への門を閉ざして、シャティヨンがきれいでい続けられるなんて思えません。
 兄上よりも、父上よりも、近衛兵たちのほうが、よっぽど正しいです。

 掴まれた手首が痛かった。
 口が裂けても言えない言葉を、喉の奥に隠す。本当は、ポケットの中にはジンジャークッキーが一枚だけ入っている。言える筈がない。兄は正しい騎士であったし、過去に二度だけ訪れたあの人が、最後は追い出されてしまった人が、また来るなんてあり得ない。
 それでも、少しだけ期待をした。

 初雪を冠むる細い枝のような指先をしていた。
 あの指にどうしても、受け取ってほしかっただけなのに。


 密閉された書斎は瓶詰の中身のようだ。暖炉の炎は煌々と燃え上がり、家主が目を逸らした瞬間に散乱した羊皮紙たちに燃え移ろうとぱちぱちと火の粉を舞いあがらせる。外は今年いちばんの寒い風が乾ききって砂漠から押し寄せているが、ゴブレットビュートの片隅の、そのまた片隅にある一室は温かさに包まれていた。と、いうよりも暑いくらいだ。
天井近くまで積み上がった本のせいか、やや燃えすぎている暖炉のせいか、先ほどから息苦しさすら覚えてきていた。こんなところで二人そろって窒息死してしまうんじゃないかしら。今日も今日とて書斎机に向かっている家主—――ジルベルトがそんなことを気にする訳もないのだが。
「—――そういえばさ、ウルダハのマーケットで星芒祭やってるよ」
 いつまでも続くと知れぬ沈黙を破ったのはレオだった。
「どこもかしこも飾り付けされて、美味そうなシチューやケーキ、温かい酒まで、なんでもあったよ」
 節くれだった指先でチェアカバーのフリンジを弄りながら呟く。と、ジルベルトが手を止め、顔をあげる。
「星芒祭?」
「星芒祭」
「それはイシュガルドの?」
「そ」
 星芒祭、星芒祭だよ。レオナールの堅い皮膚で覆われた掌で包み込んだマグカップはとうに冷えている。ショウガ入りの紅茶はマーケットで購入した。ウルダハは緋色の布に覆われ、偽物の雪で造られた細工が並び、厳かに冬を讃えていた。手を繋いだ恋人たちが色とりどりのしつらえに歓声をあげるのを横目に、レオナールは帰り道を歩いていたのだ。
 星芒祭、と口の中で転がして眉根を寄せたジルはその光景を見ていない。見ていたら戸惑うだろうか。それとも顔をしかめるだろうか、無関心を決め込むだろうか。そんな風に想像していたのだけれど、伝聞だけでレオナールの言葉に興味を持っているのは少しうれしかった。
「待て、孤児への施しの日だろ。どうしてそんなことになる」
「先生、星芒祭知ってるんだ。行事ごとなんて興味ないと思ってた」
 ああそういえば商人の家だったから、そういう、貧民に何か振舞うだとかしていたのかもしれない。そう頭をよぎっている間にも、ますます眉根は寄せられていく。
「なんで星芒祭をしているんだ?何のために?」
「どうでもいいじゃないすかそんなこと。とにかくウルダハの星芒祭は元々の…イシュガルドのとはちょっと違うくて、大事な人へ贈り物をする日なんですよ。家族とか恋人とか」
「贈り物」
「そ。マーケットにはぬいぐるみとか菓子とか並んでたかな。宝石商も」
「…ふうん」
 納得しかねている風だったが、やがて彼は答えの出ない疑問を持つことをやめたのか、手元にある黒魔導の本に視線を落とした。会話は散漫になって、暑苦しい部屋の中に立ち消える。
 乱れた前髪が鼻筋の上に垂れ落ちる。背中を丸め、今日も今日とて何か小難しい言葉を書き連ねている。温かいカーディガンを重ね着したその姿は冬毛のカラクールのようだ。—――羊舎に引きこもったまま、一歩たりと野原に出ないカラクール。
「ねえ先生、行きません?」
「行かない」
 返答は素早かった。
「どうして」
「興味ない」
 誘いをあらかじめ予期していたのか、そうではなかったとしても帰ってくる返事は同じだっただろう。今日ばかりは少し寂しく思う返答に言葉がついて出た。
「さびしいなあ」
「ひとりで行けば良い」
「話聞いてた?一人で行くもんじゃないんだって」
 返事はなかった。
 彼は世界が滅びそうになっていると告げたとしても、手元にある魔導書から目を逸らすことはしないのだろう。風よりも素早く立ち上がる時があるとすれば、それはきっと新しい黒魔法が古代遺跡から発見されたとかそんな程度だ。そういうところを尊敬して、同時に失望している。
 あなたと一緒に行きたいだけなんだよ。
 なんて言葉を放つ訳でもなく、レオナールは薄く笑って立ち上がった。この部屋は22歳の青年には少し暑苦しすぎる。引き下がらず駄々をこねるほどの幼さははじめから持ち合わせてなどいない。彼が断わった、それならもうこちらに選択肢はないのだ。
 ただ。
 今日は少しだけ寂しいと思った。


 イシュガルドにおけるささやかな御伽噺がエオルゼア三国へも広がったのは、誰かが誰かに施しを与えたという美談に人々が共感したというだけでは無くて、きっと、この重たい灰色の季節を楽しく乗り越えるための行事に都合が良かったのだ。だから街を飾り付けて、美味しいご馳走を振る舞って、思い思いに楽しんでいる。
 …少なくとも、イシュガルドで伝えられる星芒祭はこんなものではなかった。もっと厳かで、尊くて、蔑まれて、恵まれない貧民のための儀式だった。恋人や家族が大切な誰かに贈り物をする日だと、ウルダハのいくらかの人々は信じ込んでいる。それでいい。平民らが騎士の矜持だとか義務感だとかそんなものも持たず、ただ愛するためのものであるならその方がずっといい。
 レオナールの振るう拳が木人を叩くたびに、重く鈍い音がゴブレットビュートの片隅に響いた。街の喧騒から離れた住宅街は真昼の重苦しい静けさに包まれている。人気のいないプールサイドはわびしく閉鎖され、砂漠の国の街並みはついぞ変わらぬ黄土色に包まれている。
 イシュガルドに比べ、ウルダハの寒気は穏やかだ。しかし家の造りは暑さを凌ぐためのものであるためか、冷気は隙間から入り込み、どこか冷え冷えとした心地にさせる。何よりも乾燥は思ったよりも厄介だ。吐く息は白く、身体は重くきしむ。それでも腕や足を動かしていると、だんだん芯から燃えるように暖かくなっていく。
「…ふっ、はっ」
 殴打に揺れる木人はジルベルトの合意を得ずに設置したものだが、この何も置かれていない簡素な庭には奇妙に似合った。ふと周囲の家々を見ればウルダハで見られたような星の飾り付けがなされていて、どんな季節であろうと木人がひとつ置かれたきりの家は、そのものが時間から置き去りにされたようで。
 身体に攻撃を覚えさせるためには、一日たりとも練習を欠かしてはならないと彼の師は言った。騎士になるための鍛錬ばかりの日々を厭うてイシュガルドから出奔したというのに、遠い異国の片隅で欠かさず拳を振るっている。
 双竜脚、双掌打、破砕拳、連撃、踏鳴、双竜脚…しなやかな手足が踊るたび、小気味よい音が木人を鳴らす。ひとつの技の過ちが一連の流れのずれを生み、それが乱れれば拳は鈍る。だからこうして規則正しい回しを続けていると、思考は散漫に蕩け、埋没していく。レオナールはその瞬間が案外好きだった。道を究めた僧侶が持つ達観はあの人の集中力とよく似ているのだから、自らもその道を歩みたいと思うのは仕方のないことだ。何百年と続く伝統的な業が己の軸となり、歴史が指先に灯る。
 そうしてしまえば、みんな忘れられる。
「—――あ」
 けれども今日は違った。
 叩き込もうとした拳のその上を、ひらりと、冷たい花びらが。

「雪、」

 拳を下ろし、空を仰ぐ。
 雪が降っていた。やわらかく細い綿毛は宙を曖昧に舞い、差し伸べた褐色の指先にとまって、熱を帯びた皮膚の上、留まることなく溶けていく。
 見間違いかと思ったがそうではない。
 ウルダハは砂漠の街。砂の吹くばかりの地。そう聞いていたが、この地でも雪は降るのか。惚けたように見上げるレオナールの鼻先に、まつ毛に絡むようにはらはらと舞う。それは積もるような重みもなく、花のように、夢のように。
「…はは」
 ここまで来ても、雪は俺を追いかけてくるのか。

 空を見上げる。星は見えない。導きはない。どこにもない。

「降ってきたのか」
「わぁ!」
 背中にかけられた声に大仰に飛び上がって振り返ると、こちらもまた大声に驚いたジルベルトが身をすくませていた。
「せ、せんせ」
「…いきなり大声を上げるな」
 それはまったく気配を出さずに後ろに立っているあなたのせいじゃないかと言いかけた言葉をつぐんで、目の前に立つその人を見下ろせば、鼻にかけた眼鏡を曇らせたまま物憂げに空を見上げている。
「まったく、寒いわけだな」
「…ウルダハでも、雪、降るんだね」
「降る。積もらない。年にほんの一度か二度だ。…そうか、星芒祭もこの時期だったか」
 懐かしいなと一人心地る。
「先生、どうして」
「何が?」
「な、んで、出てきたの?」
 当然のようにいるけれど、普段は絶対部屋から出てくることなんてないのに。そう問いかければ、きょとんとした顔を返してくる。
「おまえがぼくに話をした」
「へ?」
「星芒祭に興味を示していた。一人で行ったんだと思ったんだ。そうしたら」
 音がしたから、と、木人に向かって指をさす。指輪の嵌った細い指の先にも雪がひらりと舞う。
「…だから、一人で行きたかった訳じゃないよ」
 怪訝な顔に苦笑してレオナールは目を逸らした。ああこの人はいつもそうだ。そうやって俺の心を振り回して、よくわからない気まぐれで苦しめてくる。きっと先生にはわからない。わかるはずもない。わかってほしいとも思っていない。あなたはずっとそのまま、不器用で愚かで、何もわからないままだ。熱された身体はすっかり冷えて凍えてしまいそうなくらいだ。
 放り出された沈黙に、次第にジルベルトの眉が次第に寄せられていく。
 何か言おうと開きかけた唇を遮るようにレオナールは笑いかけた。
「ねえ寒いでしょう。雪も降ってきたし。温かい飲み物入れるからさ、中であったまろ?」
「—――いや、ぼくは」
「出てきたってことはもう研究はおしまいなんでしょ? 今日くらいいいじゃない。俺ももう鍛錬は終わり」
「今日くらいって、なんだそれは」
 寒波に乾いた唇は手入れされないままかさついている。ウルダハの乾燥はこの男の肌には酷なようで、ときたま唇から血がにじんでいることもある。ふいに頬をよせて唇を重ねると、目を白黒とさせて、半歩後ろに下がった。ね、と笑いかけると、何かを言いたげに目を彷徨わせて、ちいさく「…ウルダハへは行かないのか」と呟いた。
「何か、欲しかったんだろ」
「行かない。興味ないもん」
「…おまえはよくわからない」
「良いの、ここが良いんだ」
 まったく、と、呆れの混じった声に、しかし不機嫌さはない。
 手首を掴んでそっと玄関へ引っ張ると、宝石の瞳はまたたいてレオナールを見上げた。ジルベルトは時々そういう顔をする。嫌だと拒絶することも受け入れることもしない、透き通って正邪を見定める目。ナルザル神はきっとこんな目をしているのだろう、見上げられると心がざわつく。はやく曇らせて、見つめられないようにしないといたたまれなくなる。
 ふと、自分が触れたくてたまらなかった掌を掴んでいることに気付いた。それはあの頃と変わらず、細くいとけなかった。
「—――ね、先生。きて」
 この人がけっして痛みを覚えないように軽く握る。ジルベルトはおとなしくついてきた。扉を開き、愛すべき人を部屋の中に導いてしまえば、今度こそレオナールは望みを叶えたのだ。