名のない字

 それはたった四文字でもあり、されど大いなる四文字でもあった。
 男は、体躯に似合わぬ小さな丸椅子に腰をかけ、頬杖をつきながら、少女の指がペンをつかまえて羊皮紙を撫でるように刷くのを、じっと見ていた。あたりには、幼い茶会のなごりが漂い、いまだ手をつけられない果物とパイナップルケーキの香りが、雨の日のむっとした空気のように一室を包みこんでいた。かりそめほどにしか帰らぬすみかのぎこちない佇まいは、実に、男が妹と慕う少女の来訪によって入眼されるのではないかと、リリーヒルズの空き部屋に転がりこんだときには一切と思わなかった男である。今もまだそのことを口にしたことはなかった。
 さて、すべてのことのはじまりの、俺は字が書けないから、といった悪辣でつつしみのない冗談は、少女の透きとおる月のようなあやしい瞳に見つめられてすっかりと無垢なリリーオブバレーのつぼみのようになってしまって、男は「嘘なんです」と告白することもできないで、ただ黙って、杖のかたち、枝のかたち、たてごとのかたち、梢のかたち……ひとつひとつ並べられる見なれた文字たちが、少女によってたった今この地に生みだされたのだとばかり、いとけなくしろい貌をして見上げてくるのを、なかば途方に暮れたようなうつけたさまで、永遠を待つ老人のように見つめ返していた。
 実のところ、男は、字を書くことも、簡単なものは読むこともできた。そうでなければ、報酬の代わりに、殴打や財産の侵奪、悪いときには肉体の凌轢が起こった。
 質の悪い紙を抉るように書く偽名というのが、望むべうもなしにただの傭兵である男の名前であるはずだった。けれども、書いてあげるね、とささやいた少女の声が、いまだ耳の奥でしんしんと降り積もっている。
 ペンの置かれる音がして、男ははっと顔を上げた。うたたねをしていたような心地よさが、男の頬を包んで上げさせたようだった。
 ふたたびテーブルの上を見やれば、白に近い色の羊皮紙に、細く、ときおり震えていたのかかすかに揺れた痕跡のある文字が浮かび上がっていた。
「フィニって字はこう書く」
 と、妹のような少女は、すこしほこらしげに年上の女の見せるような顔をして笑んだ。男は冷たい胸の痛む気がした。
 ちがう。そんな美しい名前じゃないよ。しかし、やはりただ黙っていた。少女の眉がわずかにひそんだ。男は、黙っているだけではいけないと思い、あわててほほ笑んだ。すると、朝露に呼応してひらく花のように、少女の頬が咲いた。ペンを手放した白い指が、銀のフォークをつまんだ。
「また書くね、こんどは一緒に書いてね」
 私の名前も、ととても小さな声がパイナップルのケーキに消えた。見透かさないでくれ、とも思った。が、××という名の男は逡巡するようにゆっくりとまばたきをした後、「いいですね」と言って笑った。ほんとうに、そんなだったらいいと思ったのだった。