常日頃からエマニュエルにさして深い考えはない。天罰をも両手を広げて迎え入れる生はいつだって気ままなものだ。あの夜にやせこけた少年を拾ったこともその後幾多月と陽が入れ替わり立ち代わり空に昇っても部屋から追い出さないことも、慈善活動でも監禁でもなんでもない、ほんの気まぐれに過ぎなかった。
部屋の隅に蹲るように住み着いた少年から下層に捨てられた子供特有の据えた臭いがするのが気になったのもほんの偶然、貴族の未亡人と不埒な夜を過ごし酒も煙草も切らして帰ったある冬の朝だった。冬の長い吹雪の合間、薄曇りの爽やかな朝、夜通し濃い香水と未亡人の濡れた体臭を嗅いだあとではなおさら薄汚い少年が怯えた顔を向けるのに腹が立ち、臭いから身体を洗って来いと扉を指させば身体を丸めて出ていく。ところがいつまで経っても浴室から水音が聞こえず、不審に思い裏口から出てみれば、家々の立ち並ぶ狭い路地の裏手の壊れかけた井戸で氷になる直前の水を汲み裸の身体にかけている。白い肌が痛々しいほど真っ赤に染まっているので心底呆れ果てて手首を掴み上げれば、かたかたと震える肌は死者のように冷たい。昨夜積もった雪が路面や屋根を覆い、凍てつく冷気に人々は襟を立てて歩む。そんな真冬に裸で山からくみ上げた雪解け水を浴びればどうなるか、どうして恐れないのか。エマニュエルは愚かな子供へ掛ける言葉をいくつか探し、やがて面倒になって口を噤むと、手首を掴まれたまま呆けたように身体を震わせるフィニに、服を着て外出の準備をするように命じた。
朝の公衆浴場には老人と夜勤明けの兵士が数名いるばかりで閑散としていた。欠伸をする受付に金を払い中に入る。大理石造りの簡素で狭い浴場であったが温かな湯が汲まれ、清める為に置かれていた。フィニはしきりにあたりを見回しながらついてくる。
「脱げ」
エマニュエルも服を脱ぐとそれを見たフィニが慌てて自分の服に手をかける。しかし浴場に入っても立ち尽くしているので業を煮やし、洗い場に立たせ熱いお湯をかけると身体を竦ませた。
「あつ…」
水を被ったせいで青白く震えていた肌に血色が戻る。朝の光の下で見下ろしてみると身体のくぼみのそこかしらに垢が浮いていた。本来ならば白いのであろう身体は灰色にも茶けても見える。何日身を清めていなかったのか、そのうち不快感も忘れ、自分の身体の臭いも気にはならなくなるのだろう。
骨の浮いた身体のあちこちに打撲や切り傷があった。その大半はエマニュエルがつけたものではない。幼い子供が浮浪者となり下がるまで受けた仕打ちの数々は穢れと傷として残る。のどかな公衆浴場でランプのやさしい明かりに照らされてしまうと惨めさが際立った。じろじろ見つめられることを恥じらうのか、フィニは身を縮め、エマニュエルの視線から逃れようとする。
「あの…」
「動くな。じっとしてろ」
エマニュエルは掌に入れていた石鹸を取り出すとお湯で泡立てた。いつか、閨を共にした貴族に贈られた高級品だ。上層の貴族たちの間では近頃香りづけをした石鹸が流行っている。下層の公衆浴場よりも意匠の凝らされた浴室で、良い香りのする石鹸を泡立てた風呂に浸かることは、何よりの贅沢であるとされていた。フィニがエマニュエルの手を覗き込むと、指の間から泡が立ち、花の香りが立ち込めるのに驚きの声をあげた。下層に流通する石鹸は粗悪品で泡の立ちもよくはない。こんな代物を見るのははじめてなのだろう。
両手いっぱいに泡立てた石鹸でフィニの身体をこするとみるみるうちに黒い汚れが浮き上がった。
「これひとつでおまえを十人も二十人も買えるんだ」
エマニュエルはやせぎすの身体を丸ごと包み込めてしまいそうなほど大きな掌でこすり上げながら冗談めかしてそう言った。膜のように纏った垢を落とすのがだんだん楽しくなって臍や脇や指の間を丹念に擦っている間、フィニは固く硬直して動かない。貴族が飼っている犬猫を洗うよりははるかに楽だろう。首の後ろ、耳の裏まで洗って、脂で固まった黒髪も泡立てる。股の間を洗おうとするとさすがに嫌がって逃げようとするが腰を抱えて腕を差し込んだ。エマニュエルの指が身体を這うたび震える身体はほのかに温かった。
そうして泡だらけになったフィニにお湯をかけると、少年が本来持つきめ細やかな白い皮膚が現れた。
濡れた細い黒髪の間から覗く澄んだ蒼の瞳が、浴場の天井にはめ込まれたガラス、大理石の床を興味深げに見つめていた。痩せた身体と頬の傷さえなければ案外悪くはない顔をしている。それこそ、長く伸びた髪や眉をわずかに整え、フリルのついたブラウスを着せ、作法を仕込めば…そこまで想像して男は小さく笑う。手で食うことしか知らない下層で生まれた獣のような浮浪児が上層のパーティに紛れ込んでいればそれはさぞ滑稽なことだろう。少なくとも男の見ている限り、フィニは愚鈍で、物覚えは悪そうだ。ナイフとフォークの使い方だって覚えられるものか。
エマニュエルも身体を洗うと身体を拭き、二人は浴場を出た。フィニの身体と一体化したかのような粗末な服は雑巾の端切れのような汚さだったから捨てさせ、エマニュエルの服を着せた。裾を引きずり女のドレスのようにぶかぶかのブラウスの裾の匂いを嗅ぎながらフィニはエマニュエルの後をついてくる。家に戻っても未だ自分の身体の匂いを嗅ぎ続けている。石鹸の匂いがよっぽど嬉しかったのか頬をわずかに赤らめているのは浴場帰りだからだけではないのだろう。部屋に入ってポケットの中を探り煙草がないことを思い返し舌打ちし振り向く。フィニは相変わらず袖の匂いを嗅いでいる。
「フィニ、いつまでそうしてんだ」
身体をびくりと震わせて少年が顔をあげた。真昼でも薄暗い部屋の中でフィニの白くなった皮膚がほのかに発光しているように浮かび上がっていた。エマニュエルは今この少年に施しを与えたのだと思い返し、青い瞳が恐れではなく僅かな好意で自分を見つめていることに気付いた。
「あ、あの、ありがとうございます…あの…」
いま礼を言われたのだと悟ると男の中にふつふつと苛立ちが湧いた。ほんの気まぐれ、深い意味はあくまでもないのだが、この居着いた子供が向けてくる感情がほんのわずかに柔らかいことが癪に障った。確かに子供からは朝までの饐えた臭いではなくほのかな花の芳香がする。下層に生まれ下層で死んでいく人間では娼婦以外には嗅げない匂い。
手を引っ張ってベッドに押し倒した。小さく悲鳴をあげ抵抗する肩を押さえつけて首筋に舌を這わせると細い身体が痙攣した。顔をあげると、先ほどまでのやわらかな好意が失せ怯えが顔のまんなかを走る。しかしいつものように暴れ逃げようとするのではなく、ぎゅっと目を瞑り、エマニュエルの身体の中で身を縮め受け入れようとする。石鹸の匂いがする。十人、二十人分の餓鬼を集めても嗅げない香りを纏った子供がいる。
途端に何もかも煩わしくなってエマニュエルは起き上がった。机の中を漁るとフィニに向かって小銭を投げる。
「煙草買ってこい」
上半身だけ起こしたフィニが呆けたように見上げている。早くしろと命じると慌てて立ち上がり、投げつけられた小銭を覚束ない動作で拾い上げる。ぱたぱたと小さな足音を立てて走り去っていくのを聞き、エマニュエルは机にもたれて息を吐いた。すべての行為は気まぐれで然したる意味はない。飽いたらいつでも捨てられる子供を拾った、それだけに過ぎない。しかし次は身体の洗い方を教えてやらねばならないのだろうとそう漫然と思い、煙草が切れて疼く頭を押さえ冬の朝の穏やかな気に目を伏せた。